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盛岡地方裁判所 昭和31年(わ)72号 判決

目  次

(主文)

(理由)

第一章 長期裁判の違法性について

(弁護人の主張)

(当裁判所の判断)

一 長期裁判の違法性一般

二 本件審理経過等

三 本件審理遅延の帰責事由

四 被告人の受けた不利益等

五 結論

第二章 公訴事実について

(双方の主張の要旨)

第一 検察官の主張の要旨

一 被告会社について

二 いわゆる別会社について

三 被告人の個人資産と被告会社への持込みについて

四 所得額、法人税額と所得の立証方法

五 不正行為、故意について

第二 弁護人らの主張の要旨

一 被告会社の法人格否認について

二 別会社について

三 被告人の個人資産と被告会社への持込みについて

四 所得額等について

五 不正行為等について

(当裁判所の判断)

第一 被告会社と被告人個人の事業主体性等について

一 被告会社の法人格ないし実在性について

1 被告会社の設立の経緯と初期の法人事業について

2 昭和二六年以降の法人事業

3 被告会社の実在性について

二 いわゆる別会社について

1 東洋物産有限会社について

2 岩手県遊技場協同組合及び東洋物産株式会社について

三 被告人の個人事業ないし個人資産について

1 被告人の昭和二一年から昭和二六年二月末日までの事業活動と個人資産の形成について

2 昭和二六年二月末日現在の被告人の個人財産の概略

3 昭和二六年三月以降の被告人の資産形成とその一部の被告会社への持込み等について

4 結び

四 総括

第二 被告会社の所得の帰属と勘定の処理

一 財産増減法立証について

二 持込み資産について

三 無記名定期預金について

1 争点

2 架空人名義の無記名定期預金について

3 架空人名義以外の無記名定期預金について

4 総括

四 無記名定期預金以外の預金について

1 争点

2 各預金の源泉と帰属

3 総括

五 建物勘定

1 争点

2 本店店舗、自宅の増改築等について

3 柳新道営業所について

六 別会社の勘定

七 支店の損益について

1 争点

2 各支店の営業期間について

3 支店の損益の計上もれについて

八 各年度の所得全額について

第三 不正行為等について

第四 結論

被告人 株式会社 三一商事 代表者 清算人 盧成永

岡村重孝こと盧成永

大七・一二・六生 会社役員

主文

被告人株式会社三一商事並びに被告人盧成永は、いずれも無罪

理由

第一章長期裁判の違法性について

(弁護人の主張)

一  弁護人は、本件は、昭和三一年四月三〇日の公訴提起以来、すでに満二五年を経過した異常な長期裁判であつて、本件公訴の維持と審理の継続は、もはや、明白に公平、迅速な裁判を保障した憲法三七条一項に違反するに至つたというべきであるから、本件公訴は、これを不適法、違法なものとして公訴棄却あるいは免訴の判決を言渡すべきであると主張し、その理由として以下の諸点を指摘している。

二  審理遅延の原因

まず第一に、検察官が、訴因と冒頭陳述を不明確にしたままで訴追したことである。第二回公判においてなした検察官の冒頭陳述の内容は著しく不明確であり、弁護人の求釈明により、第三回第四回の各公判で釈明がなされたものの、なお不明確な点が多く、そのために第六回公判(昭和三二年二月一三日)で本件が準備手続に付され、それ以来、実質的には、検察官の冒頭陳述と証拠調請求を整理するためにのみ準備手続が繰り返されたが、検察官の主張(冒頭陳述、証拠調請求)は訂正、追加等の動揺を重ねて容易に確定せず、しかも、昭和三四年四月九日(第一二回準備期日)から昭和三七年五月九日(第二五回準備期日)までの三年間が検察官の怠慢により空費されたことなどもあり、昭和四〇年一一月一二日(第四一回準備期日)に至つて漸く検察官の冒頭陳述が確定し、同年一一月二〇日に準備手続が終結したもので、準備手続に八年一〇ヶ月もの長期間を費した。その結果、公訴提起から第八回公判(昭和四一年三月二日)で最初の証人調べに入るまで、実に一〇年の歳月を要した。

次に、本件では審理の長期化に伴つて、裁判官の交代による公判手続の更新が十数回にも及び、そのために審理が一層長期化するという悪循環の傾向が顕著に見られたことである。更に、昭和五五年六月から行われた最後の更新手続は、被告人、弁護人側が前任裁判所による結審、判決を当然のこととして予定し、そのために被告人側の証拠調べを全部完了し、検察官の論告、求刑がなされる直前になつて、担当裁判官三名全員が交代したことによるもので、そのために本件審理の結着が一年遅れたことだけは確実である。こうして、更新手続のためにのみ要したと推測される期間(四年八ヶ月)と、新任裁判官が事件の全容を把握して適切に訴訟を進行できるようになるまでの期間を合わせると、優に五年間を超え、この期間は、更新手続がなければ本来不要なものであつたはずである。

第三に、昭和四〇年一一月二〇日準備手続を終結し、同年一二月二五日から公判に移行したのであるが、検察官の「証拠によつて証明すべき事実」が不明確のままであつたため、その後の公判において、検察官の立証方針がすこしも一貫性をもたなかつたことがあげられる。第四一回公判(昭和四八年一二月三日)で検察官の基本的な立証は終つたとしながらも、第五一回公判(昭和五一年三月一六日)以降、被告人側の立証活動に割り込む形でとめどもなく強行され、結局、検察官の立証が実質的に八年間を大きく超えたこと。

本件の実体上の争点は、第一に、被告会社の実在性の有無であり、第二に、本件で問題とされている財産ないし所得の帰属主体の二点に尽き、本来単純なもので、事案としても決して特別に複雑、困難なものでなかつた。しかし、いかに単純な争点であろうとも、客観的な事実を無視し、実態から離れた主張と立証を強行しようとする限り、問題点はいくらでも多岐に複雑、困難化し得るが、本件が何らかの意味で多少とも事案の複雑、困難性を示すような要素があるとすれば、それは、検察官が実態と著しくかけ離れた公訴事実を構成したことによるもので、本質的に無用な複雑化であり、非難さるべき困難性であると見られる。

こうして、本件審理の遅延については、捜査のあり方も含め、検察官がもつぱら主たる責任を負うべきであり、裁判所もその一端を負わなければならない。

一方、被告人側は、本件審理の遅延に何の責任もなく、迅速な裁判を受けるという自らの権利を放棄していない。

三  審理遅延の結果

被告人側の証人となるべき人々のうち、死亡、行方不明、本国への帰国等で二二名が失われるに至り、更に昭和二〇年代の調査に関する各種資料の滅失、被告人の記憶の減退等が、昭和二〇年代の資産、負債、所得など各種の数字や金額が問題となる本件では、防禦権の行使にとつて大きな障害となつた。

本件審理の遅延、長期化は、被告人の事業活動、社会的立場に有形、無形の支障を来たし、また、これらの支障は被告人の家族にも様々な形で影響を与えた。

このような問題点のすべてが、被告人の精神的な苦痛となつて凝縮されていき、神経をすり減らされる毎日が二五年間も続いたのである。本件審理の遅延、長期化がなかつたならば、被告人はより多くの事業活動ができたはずであり、より自由に人生を楽しむことが出来たはずである。

四  以上のとおり、二五年間に及ぶ本件審理の遅延は、検察官に主たる責任があり、裁判所もその一端を負うべきもので、被告人側が遅延の原因を与え、迅速な裁判を受ける権利を放棄していないことは明白であり、その結果、迅速な裁判の保障条項によつて憲法が守ろうとしている被告人の諸利益が著しく害せられたと認められる異常な事態が生ずるに至つた(昭和四七年一二月二〇日最高裁判決、刑集二六巻一〇号六三一頁、以下高田事件判決という。)ものといわなければならない。

ただ、本件では、長期間の審理中断が存在した高田事件の場合と異なり、二五年間実体形成が進められてきたことが問題として残るが、右実体形成の進行過程の内容は、昭和三三年六月一六日(第八回準備期日)に弁護人が検察官に対してなした未取調請求の押収物の還付請求を拒絶されたという経過もあり、被告人側にとつて一方的に不利益であり、それは、絶えず被告人の防禦権を侵害する過程の積み重ねであつたというべきであり、更に、審理の進行により、それが中断されている場合に比べて、何かにつけて被告人の個人的、社会的不利益が増大していくことも避け難かつたというべきであるから、実体形成過程の存在という、本件と高田事件との相違点は、本件に高田事件判決の適用を否定する論拠となるべきものではない。

五  よつて、本件は、「審理の著しい遅延」による「異常事態」に注目し、もはや、訴追の実質的な利益が失われたと見て、刑事訴訟法三三七条四号を準用して免訴の判決がなされるべきであり、あるいは、公訴の実質的な適法要件が事後的に失われ、公訴の提起が後発的に無効になつたものとして、同法三三八条四号により公訴棄却の判決がなされるべきである。

(当裁判所の判断)

一  長期裁判の違法性一般

本件は、昭和三一年四月三〇日の公訴提起以来、本判決期日の昭和五六年一〇月三〇日までに二五年六ヶ月に及ぶ審理期間を費した異例の長期裁判である。

憲法三七条一項は、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」と規定しており、迅速な裁判を受ける被告人の権利は、憲法の保障する基本的人権の一つである。そして、憲法の右条項は、単なるプログラム規定ではなく、弁護人が引用する高田事件判決がいうように、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判を受ける被告人の権利が害せられたと認められる異常な事態が生じた場合には、これに対処すべき具体的な規定がなくても、もはや当該被告人に対する手続の続行を許さず、その審理を打ち切るという非常救済手段がとられるべきことを認めた趣旨の規定と解される。その具体的な適用にあたつては、事案の内容、遅延の期間、その原因と理由、被告人の受けた不利益等を綜合勘案して決せられなければならないのであつて、たとえ審理が長期間にわたつたとしても、被告人の病気、逃亡や審理引延し等その主たる原因が被告人側にあるような場合には、被告人側が迅速な裁判を受ける権利を放棄したものとみなされよう。

ところで、右高田事件判決は、第一審裁判所の公判中審理が一五年余の長年月にわたり中断された事案に係るものであり、このような長期間の審理中断のない本件(後記のとおり、中断の最長期間が二年一〇ヶ月である。)とは事案を異にする。)とは事案を異にする。とはいえ、右の判旨は、刑事事件における審理遅延一般についても妥当すべきであり、弁護人の所論のように、通常の審理期間を著しく超えて長期化し、その責がもつぱら検察官、裁判所側にのみ帰せられるような場合には、右判旨を類推し、審理打ち切りの救済措置がとられることもあろう。

しかしながら、迅速な刑事裁判は、これを受ける被告人の権利にとどまらず、公益上の要請でもある上、当事者主義を高度にとり入れた現行刑事訴訟法の訴訟構造のもとにおいては、審理の促進は裁判所側の訴訟指揮に待つだけではなく、検察官、被告人、弁護人においても積極的にこれに協力すべきことが期待されると解せられる。ことに、事案が複雑で争点が多岐にわたり、証拠調べ等審理に多くの日時を要すべきことが予測されるような事案については、裁判所において争点と証拠関係を整理し、審理計画を十分に立て、迅速に審理を進めるようにつとめるとともに、検察官はもとより、被告人側においても、審理の促進のための積極的な訴訟活動が期待される。審理が長期化することを予測しながら、右の期待に反して審理の促進に協力せず、それによつて遅延が生じた場合には審理の状況いかんにより、たとえ審理が異例に長期化したとしても、迅速な裁判を受ける被告人の権利の保障は及ばないものとなろう。

以上の観点から、本件における具体的基準について検討を進める。

二  本件審理経過等

本件訴因の内容は後記公訴事実のとおりであるところ、関係記録によつて認められる審理経過は次の審理経過表のとおりである。

審理経過表(略)

右審理経過の中から、本件審理が長期化したことに影響を及ぼしたと見られる事項を、関係記録によつて検討、整理する。

1 まず、本件は昭和三一年五月二四日の初公判以来、昭和五六年七月一四日の結審に至るまで九四回の公判期日と四四回の準備期日を重ねたのであるが、それを次の四期にわけて考察することができる。

(一) 第一期 昭和三一年五月二四日の第一回公判から昭和三二年二月一三日の第六回公判で準備手続に付されるまで

(二) 第二期 昭和三二年二月一三日の第一回準備期日から昭和四〇年一一月二〇日の第四二回準備期日で準備手続を終結するまでの約八年九ヶ月間

(三) 第三期 昭和四〇年一二月二五日の第七回公判から昭和五〇年九月一六日の第四七回公判までの約九年九ヶ月間

(四) 第四期 昭和五〇年一二月一〇日の第四八回公判から昭和五六年七月一四日の第九四回公判(結審)までの約五年七ヶ月間

2 期日の内容、変更ないし取消回数、期日間隔等について

(一) 実質審理の行われなかつた期日の回数  計二四回

一期  二期  三期  四期  小計

裁判所の都合によるもの      一回  一回      二回

検察官の都合によるもの     一三回         一三回

被告人側の都合によるもの     一回  三回  三回  七回

証人の不出頭によるもの              二回  二回

合計            一五回  四回  五回 二四回

(二) 期日の変更ないし取消の回数      計四九回

一期  二期  三期  四期  小計

裁判所の職権によるもの      四回 一四回  三回 二一回

検察官申請によるもの       二回  五回      七回

被告人側申請によるもの      三回 一〇回  八回 二一回

合計             九回 二九回 一一回 四九回

(三) 期日間隔等

(1) 期日間隔(平均)

一期    二期   三期   四期   全平均

一~二ヶ月 二・五ヶ月 三ヶ月 一・五ヶ月 二・二ヶ月

(2) 期日間隔が三ヶ月を超えた回数 計二九回

内訳 一期  二期  三期 四期  計

一二回 一六回 一回 二九回

二期の一二回のうち、実質審理の間隔の最長は二年一〇ヶ月

三期の一六回のうち実質審理の間隔が九ヶ月を超えたのが

一六回公判と一八回公判の間        九ヶ月

二六回公判と二八回公判の間        九ヶ月

四五回公判と四七回公判の間         一年

3 裁判所、主任検察官の変更回数等

公判   準備  計

裁判所の構成 一六回  一二回 二八回

(公判手続更新一六回)   (延四二名)

主任検察官   九回   五回 一四回

4 証拠調べ関係等

(一) 証拠調請求の状況

検察官請求

被告人側請求

第一期から第二期まで

証人

三四名

一一名

書証

一七五通

二一通

物証

五〇点

なし

第三期から第四期まで

証人

七一名(計一七回)

四二名(計六回)

書証

七八通(計一七回)

一四通(計二回)

物証

五二点(計三回)

四八点(計四回)

(二) 証拠調べの状況

検察官請求分

被告人側請求分

職権取調分

備考

取調

却下

撤回

取調

却下

撤回

証人

八七名

一八名

三四名

一九名

双方申請分三名を含む

書証

一九五通

一二通

四六通

三五通

物証

一〇二点

四三点

五点

一二点

(三) その他の状況

(1) 証人調べに費した期日等は、公判が四八回、期日外が三回である。

(2) 被告人質問は計一八回施行し、そのうち、証人調べがなく、第四期で主に被告人質問のみを施行した期日が一〇回である。

三  本件審理遅延の帰責事由

本件は、法人税法違反の脱税事件で、検察官が財産法立証を採用し、被告人側が公訴事実を全面的に争い、事案複雑にわたつたために、前記のように証拠関係が多数(取調べた証人延一一八名、書証二三〇通、物証一五七点、被告人質問をした期日一八回)に及び、その取調べに相当期間を要する事案であつたことはいうまでもない。しかし、かかる長期間を要すべき事案とは到底考えられないので、弁護人の所論にかんがみ、関係記録によつて、その帰責事由を検討する。

本件では初期の段階から、争点が多岐にわたることが予想されたが、昭和三二年二月一三日の六回公判で準備手続に付されて以来、実に八年九ヶ月もの長期間を費し、四二回の期日を重ねたにもかかわらず、争点と証拠関係を未整理のまま準備手続を終結し、公判手続に移行させたことが、遅延の最大の原因といつてよい。

1 検察官の冒頭陳述が四次にわたつて繰り返され、確定するまでに年月を要したこと。

検察官は

i二回公判における冒頭陳述(第一次)によつて逋脱の方法、勘定科目と金額を示し、証拠調請求を併せて行い、

ii六回公判で右冒頭陳述の一部(第一年度期首貸借対照表の勘定科目)を差し替え、

iii五回準備期日で昭和三二年七月二二日付証拠説明書(仮に第二次冒頭陳述と呼ぶ。)によつて、各年度の資産、負債の勘定科目、金額と科目ごとに証拠とその摘要(説明)が詳細に記載され、いわば冒頭陳述の補充と証拠調請求書を兼ねた実質のものを陳述し、その後弁護人の求釈明に応じ、

iv二五回準備(昭和三七年五月九日)で冒頭陳述書(第三次)と証拠調請求書を提出し、

v四一回準備(昭和四〇年一一月一二日)に冒頭陳述書(第四次)を提出し、

ようやく立証事項を終了させた。この間一〇回準備で弁護人に訴因の金額と第二次冒頭陳述の金額が異ることを指摘され、一二回準備で起訴状の訂正を行い、この訂正に応じて冒頭陳述(第一次)を訂正するという段階に来て、その準備未了を理由に一四回準備から二四回準備まで連続して期日を空転させ、昭和三四年六月二四日から昭和三七年五月九日まで二年一〇月に及ぶ空白期間をつくつた。

右のように、検察官側に帰すべき遅延原因は明らかなところ、弁護人は、検察官の冒頭陳述の内容は著しく不明確で、容易に確定しなかつた旨主張する。しかし、記録によると、検察官は当初より訴因を特定し、その表示に欠けるところはなく(後記公訴事実参照)、審理の初期の段階で冒頭陳述をなし、主張を明確にしていたことは明らかである。脱税事件の審理では、冒頭陳述によつて所得の立証方法(本件では貸借対照表)と勘定科目並びにその内容をなす会計事実と計数の根拠等を示し、これに対応する証拠を科目ごとに明らかにして請求すれば、検察官として冒頭段階の立証事項を明確にする義務は尽したと解されよう。本件では、第一次冒頭陳述とその差し替えを経て第二次陳述がなされたことによつて右の立証事項は殆ど明らかにされたといえる。むしろ、弁護人の後記の無用な求釈明(求釈明中には訴因の金額の違いなどを指摘する等適切なものもあつたが)に追われ、第三次、第四次の冒頭陳述を繰り返したものの、その所得立証の方針は当初より変わらず、勘定科目や計数にも異動はなく、若干の字句や誤記を訂正したにすぎない。公訴を提起し、すみやかに訴訟追行を求める立場にあるはずの検察官の姿勢に、確固たるものが欠けていなかつたとはいえない。

2 被告人側において不必要か無用の求釈明を執拗に繰り返し、準備手続を空転させたこと。

他方、審理経過の示すとおり、弁護人は八次にわたる求釈明をなし、これに対する釈明にも多くの時間がかけられていた。しかもその求釈明の殆どは争点整理に不必要か無用のものであつた。例えば、

i第二次求釈明―検察官の冒頭陳述に、所得の計算は財産増減法によつたことや捜査の経過等が記載されたのに対し、それは証明すべき事実か証拠の説明かについて釈明を求める、といつた類の手続に無理解とも思われる求釈明をし、

ii第四次求釈明―検察官が、被告会社の所得として被告人個人や内妻名義の預金も計算に入れるし、東洋物産有限会社等別会社も被告会社の一部であるから、その資産、負債も被告会社に帰属させる旨主張し、更に、被告人個人の資産は被告会社に全部投入された旨を主張しているのに対し、所得とその帰属の意義等を曲解し、岡村重孝(被告人)や内妻には預金能力を認めないのか、これらの人々には民法一条の三の権利能力はないのか、被告人には私有財産を認めない趣旨か、被告人に銀行借入れ能力がないのか、有限会社に借入れ能力がないのか等々六十数項目にわたる求釈明をなし、

iii第六次求釈明―冒頭陳述に「国税局および検察庁において捜査の結果証拠に基づき認定した被告会社の各所得金額及び積立金は以下のとおり。」と記載され、それは検察官が立証予定の所得等の額という意義にすぎないのにこの点を捉え、認定をした主体、法令上の根拠、認定をした年月日、証拠とは法人税法上何をいうか法令上の根拠を示せ、という類の的はずれな求釈明を行い、これに検察官が「認定したのは検察官である。」等と釈明するや、これに対し、「検察官じしんの認定は主観的なもので事実ではない。認定した検察官の尋問を請求していないから、右冒頭陳述は証拠としてその取調を請求する意思のない資料に基づくものであり、撤回を求める」等の無意味な異議申立を行い、

iv第八次求釈明―「登記簿上成立した東洋物産有限会社を法人として扱わない法的根拠、その基準如何、被告会社を法人として取扱う法的根拠、その基準如何」等それまで検察官が数回にわたり釈明した事項をまたしても繰り返し求釈明している。

このように無用な求釈明が何度にもわたり執拗に繰り返され、それを準備手続を主宰する裁判所が放置したため、検察官がその釈明準備のために時間を費し、準備手続が実質的に空転されたことも見逃すことのできない側面である。

更に弁護人は、検察官の証拠調請求に対する意見を次回までに準備すると述べながら、それを実行しなかつたことが数回あつた。

3 検察官が証拠の早期閲覧を拒否したこと。

弁護人は昭和三九年二月一五日の三二回準備期日でようやく冒頭陳述を行い、被告会社の所得というのは被告人個人の所得であり、被告会社には実体がないこと、内妻の所得は被告会社の所得とすべきでないこと等簡単な主張をまとめ、同年一一月四日をもつて二一通の書証と一〇名の証人及び被告人質問を申請したにすぎず具体的な争点を明確にするには程遠いものであつた。

しかし、検察官は、脱税事件の反証にも欠かすことのできない被告会社や被告人から押収した多数の未取調請求の証拠品について、昭和三三年五月一七日に弁護人から還付請求があつたのに対し、それを拒絶し、右証拠品の閲覧、謄写の要求に応じなかつた(第四八回公判調書の主任弁護人の意見によると、検察官は昭和五〇年頃まで閲覧、謄写に応じなかつたと窺われる。)。

このようなことが、早期に反証計画を立て、争点を見出す妨げになつたのではないかと思料される。

4 裁判所が準備手続きで適切な訴訟指揮をしなかつたこと。

このように長期間をかけながら、準備手続では検察官の同旨の冒頭陳述の繰り返しと、これに対する弁護人の無用な求釈明に追われ事実上空転していたのに、裁判所(受命裁判官)は構成員の交代を続け、争点の整理、審理の促進のための適切な訴訟指揮をとつた形跡がない。その末昭和四〇年一一月二〇日の四二回準備手続で終結したが、この期日では、さきにあげた多くの無用な各求釈明とこれに対する釈明書面を対比して陳述させ、検察官の冒頭陳述(第四次)と弁護人の前記冒頭陳述の両論を併記し、併わせて字句等の訂正を行つたにすぎない。更に、検察官請求証拠について、弁護人の同意、不同意や物証に対する意見がすべて出されており、取調べ予定の書証と申請すべき証人は十分予測されるものであつた。しかるに検察官がその一部の証人申請をしただけなのに、そのまま受け容れ、未申請証人を放置し、申請した証人についての審理計画さえ立てなかつた。

準備手続では、本来、刑事訴訟規則一九四条の三の手続を行い、主張を整理して争点を煮つめ、必要にして十分な証拠調請求をさせ、公判に移行してからの審理計画を練り、証拠調べが争点を中心として集中的、円滑に実施できるようにするのが目的であるが、本件においては、右手続を主宰する裁判所に右のような目的意識が十分でなかつたと思われる。また、検察官、被告人側においても右手続の進行に協力的ではなかつたことを指摘せざるを得ない。

準備手続を終了し、公判に移行して一〇年間弱の第三期は審理が極めて散慢に行われた。第四期の終盤に入つても争点整理のないまま、証拠調が延々と続いた。更に帰責事由を検討する。

5 公判における証人調が緩慢に、無計画に行われたこと、ことに検察官立証に長期間をかけたこと。

第三期では、八回公判から証拠調べに入り、二〇回公判(昭和四四年三月二六日)までの間、主に被告会社の実在性に関する調べをする方針の下に検察側証人七名、被告人側証人一〇名(双方申請三名を含む)を取調べ、二一回公判から被告会社の経理関係等の審理に移つた。

ところで、検察官の証人申請は、審理経過表のように昭和四四年五月一二日から昭和四九年八月一五日までの間計一一回(五七名)も延々と単発的になされる有様で、四二回公判(昭和四九年二月六日)まで検察側立証が続いた(取調べた証人六二名)。

被告人側の証人取調べは三九回公判から四五回公判まで行われ、計一一名の証人を取調べ、結局、第三期の一〇年間で計八七名の証人を取調べた。

更に第四期も検察官の証人申請が五二回公判(五名)、五六回公判(五名)、五八回公判(一名)、昭和五二年四月二七日(一名)、六一回公判(一名)、七四回公判(一名)と計六回(一四名)もなされて、七五回公判で証人調べを終えるまで検察側証人の取調べが続き、被告人側の証人調べがそれと併行して行われるという状態であつた。

6 被告人側も公判期日の審理促進に協力的ではなかつたこと。

被告人側においては、多数回の期日の変更、取消に同意しているほか、特に第三期では、複数の弁護人が選任されているのは、一人の弁護人の差し支えや相被告人の病気等を理由に、計一〇回も期日を変更させて審理を延ばした。予定通り公判を開き、主任弁護人が差し支えのときは副主任弁護人を選任したり、相被告人の欠席のときは公判準備手続に切り替える等によつて、遅延を防止することが可能であるのに、あえてそのような措置を求めなかつたばかりか、出頭した証人調べを延ばす(二七回公判)等審理促進に協力的であつたとは認められない。そして、このような審理を続ける限り、裁判が長期化するであろうことは被告人側にとつても十分予測されたはずであつた。

7 裁判所が公判手続においても適切な訴訟指揮をしなかつたこと。

裁判所は、準備手続を終結した時点ですでに起訴後九年を超えていたのであるから、公判手続に移行した後は、具体的な審理計画を立て、期日を継続的に開くとか、期日の一括指定を行うなどして審理の促進を図り、不完全な準備手続の結果の立て直しを図るべきであつたのに、慢然と審理を進めたかの観がある。そればかりか、特に第三期では、期日の変更ないし取消の回数計二九回のうち、職権によるものが一四回とその半数近くを占め(その事由は、裁判官の忌引のための一回を除き不明である。)、期日間隔も平均三ヶ月に一回で、実質審理の間隔が九ヶ月に及んだことが二回、一年に及んだことが一回と極めて散慢な進行であり、裁判所自らが審理促進に消極的な訴訟指揮をしたといわざるを得ない。多数の証人調べが予想される段階にありながら、このような審理ペースで期日を重ねていたのであつて、これでは、本件は審理に二五年はおろか優に三〇年以上を要するものとなろう。

8 終盤に至るまで争点が整理されず、審理計画も不十分のまま証人調等が行われたこと。

第四期は、期日の進行そのものは平均一・五ヶ月に一回と前期に比し早まつたが、必ずしも争点は煮つめられず、また終結までの審理計画が立てられていたとは考えられない。検察官はこの期においても初期の申請予定証人の取調請求を延々と続け、六回(一四名)も重ねたことや、被告人側において期日の変更、取消を繰り返し、また、主張を明確にしないまま反証活動を続けたこともあつて、争点や審理計画が整理されないままであつた。事後的に争点と双方の主張が明確にされ、一応の整理がなされたのは、殆ど事実調が終了した後の八五回公判以降、判決裁判所の構成になつてからである。

以上のとおりの各帰責事由を指摘することができ、本件審理の遅延は、裁判所や検察官側に相当の事由が存するが、他方被告人側にも少なからざる事由が存するといわなければならない。

四  被告人の受けた不利益等

前記のとおり、被告人側請求証人五三名のうち、一九名が撤回されているが、その大部分が死亡、行方不明によるものであり(被告人の公判供述、八三回、九一回)、ほかに、被告人は白哲(納税申告関係)、鈴木三郎(協同組合及び本店土地関係)、石川利一(東洋物産有限会社及び土地関係)、吉田博幸(本店建物増改築関係)の四名を是非証人として調べたかつたが、いずれも死亡ないし本国へ帰国してしまつたために不可能となつたと供述している(八四回、九一回公判)。また、前記のとおり、検察官請求証人一〇五名のうち、死亡又は行方不明により一八名が撤回され、のちに、それらの者の質問てん末書等が採用され、結果的に被告人側の反対尋問の機会を奪つている。更に、本件審理が長期化したことにより、被告人や証人の記憶の減退、喪失が随所に見られ、被告人の公判供述(八四回、九一回)によれば、被告人側の主張を裏付けるための各種の資料が散逸し、その取調べが不可能となつたことが認められる。

このように、被告人は、本件審理遅延の結果、防禦権の行使上多くの不利益を受けたものと認められる。

しかし、一方では、この種の事案に不可欠な多数の物証の多くが残されており、審理の終盤では、弁護人もこれらを援用し、多数回の被告人質問等による精力的な反証活動を行つていたのであり、審理は実体判決を目ざしつつ証拠調べを行つて来たところといえる。

被告人は公判廷において(八三回、九一回)、長期間被告人という立場に置かれていることにより、事業活動や社会的立場の上で種々の障害が生じ、家族の者にも悪影響を及ぼし、自分自身も耐え難い精神的苦痛を受け続けてきた旨綿々と供述している。

人生の約三分の一にあたる期間を刑事被告人という立場に立たされ続けた被告人の心情には測り難いものがあり、被告人の供述するとおり、あらゆる活動において様々な制約を余儀なくされたことは察するに余りある。

五  結論

本件は、前記のとおり、事案複雑で争点が多岐にわたり、証拠関係が多数に及んだ事案であるが、本件が、一般事件に比べ、審理が長期化することは、審理のどの段階ででも十分予測できたところであり、審理促進を図るため、裁判所の適切な訴訟指揮が常に要請されたとともに、検察官、被告人側においてもこれに協力することが期待されたところ、裁判所の構成が多数回にわたり変更したことや裁判所の訴訟指揮が適切を欠いたことはもとより、検察官に訴訟促進に協力する態度が欠けた時期のあつたのと同時に、被告人側においても、初期の段階で検察官に対する求釈明を執拗に繰り返し、その後も主張を明確にせず、多数回にわたる期日の変更や取消を求め、期日を空転させるなど、訴訟促進に協力的であつたとは言い難い態度を示しており、これらのことが重なり合つて本件審理の遅延を招いたものといえるのであるから、その帰責事由が検察官と裁判所のみにあるという弁護人の主張は理由がない。

本件審理の遅延により、被告人が種々の不利益を受けたことは前記のとおりであるが、それは、まさに審理が遅延したことによつて必然的に生じるものであつて、このような事態を避けるために迅速な裁判が要請され、これは裁判所、検察官の職責であると同時に、被告人の正当な利益が害されぬように保護すべき職責にある弁護人においても、審理が長期化するに従い、それに比例して審理促進に積極的な姿勢を示すことが要請されると解されるところ、本件においては、前記のとおり、弁護人が、特に第四期の初期の段階まで、その姿勢を示し続けたとは言い難い。

以上のとおり、本件は、審理期間に二五年六月を費した異例の長期裁判であり、その結果、被告人に種々の不利益をもたらしたことが認められ、本件のような長期裁判が二度と繰り返されないように裁判所を含む訴訟関係人は深く自戒しなければならない。しかしながら、本件において、長期にわたる審理中断がなく、実体審理は曲りなりにも遂げられて結審し、実体判決の可能な段階まで審理が進んだこと、長期化の原因が、裁判所、検察官側の事由にあると同時に、その少なからざる事由が被告人側にもあつたと認めざるを得ないこと、それら諸々の事由が積み重なつて長期化したいわば一般的な訴訟遅延の事案であると認められることなどの事情を綜合勘案すれば、著しい審理の遅延の結果、高田事件判決において示されたほどの異常な事態が生じているとまでは認められず、本件につき、審理を打ち切るという非常救済手段をとることは相当ではない。結局、弁護人の免訴ないし公訴棄却の主張は採用できない。

第二章公訴事実について

〔略語例〕被告人株式会社三一商事=被告会社、被告人盧成永=被告人、昭和三一年四月六日付収税官吏に対する質問てん末書=質問てん末書(31・4・6付)、昭和三一年四月六日付検察官に対する供述調書=検面調書(31・4・6付)、第七一回公判調書中証人中原俊一の供述部分=証人中原俊一の証言(七一回)、第七七回公判調書中被告人の供述部分=被告人の公判供述(七七回)、仕入元帳一冊(昭和四二年押第二二号の符号八七)=仕入元帳一冊(符八七号)

(公訴事実)

本件公訴事実と罰条は、次の起訴状原文(ただし、金額は訂正後のもの)のうち、分離した被告人中原を除く、被告会社と被告人盧に関する部分のとおりである。

公訴事実

被告人株式會社三一商事は昭和二十四年三月四日設立され資本金五十二萬圓を有し盛岡市平戸五十八番地に本店を設けパチンコ遊戯場の経営パチンコ器械の製作、販売等の事業を営んでいたもの、被告人盧成永は右會社の代表取締役として同會社の業務一切を統轄主宰していたもの、被告人中原俊一は右會社の支配人として同會社の業務の運営を担当していたものであるが、被告人盧同じく中原の両名は共謀の上右會社の業務に関し法人税を免れようと企て

第一  被告人會社の昭和二十七年三月一日から同二十八年二月二十八日迄の事業年度の會社の取得にかかる金員中から被告人盧又は他人及び架空人上山忠一名義及び佐昭、及川等の印顆を使用して盛岡市所在の株式會社興産相互銀行本店等に多額の無記名定期預金等を為し會社の所得を秘匿し被告人會社の所得金額は少くとも金七百七十七萬六百六十八圓であり之に対する法人税額は金三百二十六萬三千六百五十圓であるのに拘らず之を所定の期日である昭和二十八年四月三十日迄に盛岡税務署長宛にその旨の申告を為さず、因て不正行為を為して少くとも金三百十五萬九千百六十圓(十萬四千四百九十圓は法定申告ありたるものと見做されているため前記の法人税額から差引く)の法人税を免れ、

第二  被告人會社の昭和二十八年三月一日から同二十九年二月二十八日迄の事業年度の會社の取得にかかる金員中から被告人盧及び中原名義又は他人及び架空人上山忠一名義及び佐昭、及川等の印顆を使用して前示の如く興産相互銀行本店等に多額の無記名定期預金等をして會社の所得を秘匿したのみならずその申告期間中である昭和二十九年三月十五日盛岡税務署長に対し被告人會社が清算したることがないのに拘らず清算しその事務終了してこの事業は岡村重孝、中原俊一、豊川光彦三名の個人経営の如くにして岡村重孝は十六萬圓、中原俊一は五萬円、豊川光彦は五萬円の年収所得がある旨「昭和二十八年分の所得税の確定申告書」を提出して同官庁を詐偽しその間の被告人會社の事業年度の所得金額は少くとも金千百四十二萬三千二百七圓であり之に対する法人税額は四百七十九萬七千七百四十圓被告人會社の積立金額が少くとも百三十七萬六千百圓で之に対する法人税額は六萬八千八百圓であるに拘らず之を所定の期日である昭和二十九年四月三十日迄に盛岡税務署長宛にその旨申告を為さず以て詐偽及び不正行為を為して少くとも金四百八十一萬四千三百圓(五萬二千二百四十圓は法定申告ありたるものと見做されてあるため前記の法人税から差引く)の法人税を免れ

たるものである。

罪名

法人税法違反

同法第四十八条第一項、第二十一条第一項、第五十一条

(双方の主張の要旨)

第一検察官の主張の要旨

一 被告会社について

被告会社は、パチンコ遊技場の経営、パチンコ器械の製作、販売等の事業を営む株式会社で、設立後営業目的や会社役員の変更も登記され、法人税を納付し、通信、官公庁からの通知、銀行取引も被告会社名で行われ、備付帳簿書類にも被告会社名と内部組織が表示される等形式、内容において法人として存在し、被告人が本店で代表取締役として業務一切を統轄し、中原に経理、税務事務を担当させて営業活動を行つていた。

二 いわゆる別会社について

東洋物産有限会社外のいわゆる別会社は、被告会社の商取引のトンネル的な存在か、何らかの問題が生じた場合の防波堤の役割を果しているにすぎず、その事業上の損益や財産増加分は、すべて被告会社のものとして計算しなければならない。

A 東洋物産有限会社   登記のある法人であるが、被告会社の実質上の本店と同じ場所に本店を置き、被告会社が土地を購入する手段として、石川利一を名目上の代表取締役として設立したにすぎないもので、資本金の払込み等もなく、定款所定の事業はおろか一切の事業を行わず、土地を四三〇万円で購入したのみである。当時被告人には被告会社から受ける二万円の月給以外に収入源はなかつたから、右代金も被告会社から支出されたものと認められる。

B 岩手県遊技場協同組合   これは形式上の法人格を有するが、被告会社の実質上の本店と同じ場所に主たる事務所を置き、役員八名中六名が被告会社の関係者である。同組合は、目的の業務を行わず、間もなく被告会社のために景品を仕入れ、大部分を被告会社に販売していたもので、被告会社との区分計算も行われず、事実上被告会社の仕入部と化していた。出資の払込みもないまま、その事業を東洋物産株式会社に引き継いだ。

C 東洋物産株式会社   同会社は未登記のもので、法人格はなく、右組合の事業を引き継ぎ、被告会社の事実上の仕入部となり、被告会社の隠れみのとしてその名が用いられたもので、被告会社との経理上の区別も不明確であるから、その事業主体は被告会社である。

三 被告人の個人資産と被告会社への持込みについて

被告人は、昭和二六年当時、現金二五〇万円の個人資産を有していたが、その内八〇万円を内妻岩渕ツネ子が買つた盛岡市日影門外小路の土地、建物の支払いに充て、その残り一七〇万円のうち、九〇万円を昭和二六年度の、八〇万円を昭和二七年度の被告会社の事業資金として投入した。その他被告人が個人事業として売掛金等を回収した現金四〇万円をも同年度の被告会社の事業資金に投入し、その合計額は二一〇万円となり(本件財産増減計算では岡村重孝仮受金の勘定科目で表わされている。)、被告人自身は、被告会社から月二万円の給料しか受取つていないので、その後被告人が個人名義で取得した資産、負債も所得の計算上すべて被告会社に帰属するものとして計算しなければならない。岩渕ツネ子も無収入で、被告人の収入に依存していたので、同人名義のものも出資した土地、建物以外は被告会社に帰属するものである。

四 所得額、法人税額と所得の立証方法

被告会社の前記二事業年度における各所得及び積立金は次のとおりである。

1 昭和二七年度 所得 七、七七〇、六六八円

積立金(基礎控除五〇万円を差引いた額) 〇円

2 昭和二八年度 所得 一一、四二三、二〇七円

積立金(前同) 一、三七六、一〇〇円

これに対する法人税額は次のとおりである。

1 昭和二七年度 所得に対する法人税額 三、二六三、六五〇円

法人税法第一九条第六項の規定により申告したものとみなされる法人税額 一〇四、四九〇円

差引法人税逋脱額 三、一五九、一六〇円

2 昭和二八年度 所得に対する法人税額 四、七九七、七四〇円

積立金に対する法人税額 六八、八〇〇円

法人税法第一九条第六項の規定により申告したものとみなされる法人税額 五二、二四〇円

差引法人税逋脱額 四、八一四、三〇〇円

被告会社においては、備付帳簿が不備で、売上の相手方は個人でかつ現金取引である等のため、所得の立証は損益計算法によることが困難であつたので、財産増減法によつて所得を確定した。

右所得の詳細は、昭和二七年二月二九日現在の貸借対照表、昭和二八年二月二八日現在及び昭和二九年二月二八日現在の各財産増減表(本判決添付別表一、二、三、その内容につき同四、五、六)のとおりである。

五 不正行為、故意について

被告人は中原俊一と共謀し、右所得の大半を無記名定期預金にして秘匿し、脱税した。すなわち、

(一) 興産相互銀行本店への無記名定期預金の預入高は、昭和二八年二月二八日現在で九〇〇万円(七口)、昭和二九年二月二八日現在で一、四三〇万円であつた。右銀行で被告人がその預金者なりとして、貸付利率の引下げその他の操作をし、申込書使用の印鑑は、架空人名義のものが半数以上であり、中原が印判屋に注文して作成させた。

(二) 被告人と中原は、右定期預金について、これらの存在を知悉しながら、決算に乗せる意思なく課税対象外に置く考えであつた。

(三) 被告人は、昭和二九年三月一五日、被告会社の法人税を免れる目的で所轄税務署長に対し、中原俊一、豊川光彦、被告人の三人の各事業によるような所得税確定申告をし、中原、豊川は所得税額が零、被告人は一、五〇〇円であるとの申告をした。

第二弁護人らの主張の要旨

被告人及び弁護人は、公訴事実を全面的に否認し、無罪を主張し、次のように反論する。

一 被告会社の法人格否認について

被告会社は、登記簿上存在するが、実体はなく、その事業とされるものはすべて被告人の個人事業であり、その所得も個人に帰属すべきであつて、法人格は否認されなければならない。

被告会社は、食堂を経営していた被告人が、江頭三郎らと薪、炭、材木販売等の共同事業を行う目的で、昭和二四年三月に設立されたものであるが、事業目的が挫折し、昭和二六年秋に中原が被告人の従業員となると、官公庁や銀行との取引で株式会社三一商事の名称を使うようになり、更に昭和二八年秋以来内部関係でも社長、支配人、部課長の名称が用いられたが、他方株主総会や取締役会が開かれたことはない。また、被告人以外に被告会社に出資した者はない。被告会社は、名目上の存在で社団としての実質はなく、その事業主体は被告人にほかならないから、法人税の納付主体たり得ない。

被告会社は、いわゆる個人会社としての実態をも備えていない。個人資産と法人資産との経理上の区別、帳簿の明確化はなされていなかつたし、中原が作成、提出した昭和二六年度の法人税確定申告書の内容も全く実体を反映していないものである。

二 別会社について

検察官が被告会社に含まれると主張する三つのいわゆる別会社は、被告会社と全く別の独立した事業主体である。

Aの東洋物産有限会社は、被告人と石川利一が土地を購入して共同事業をするために設立し、その購入資金も被告人が個人的に借り入れて調達したもので、被告会社の経理から支出したものではない。当初営業活動をしなかつたのは、購入した土地に関する民事紛争が生じたためであり、被告会社の解散後右紛争が解決して営業を行つたことも、右会社が被告会社と別法人であることの証左である。

Bの岩手県遊技場協同組合は、当初協同組合の目的で設立されたが、出資が思うように行われず、結局被告人の主宰する景品の仕入、販売等の事業と化したが、従業員も経理も被告会社とは区別され、二、三ヶ月でその名称をCの東洋物産株式会社に変え、事業を継続した。

Cの東洋物産株式会社は、法人の登記もない名目上の株式会社ではあるが、右の事業を引継ぎ、被告会社とは別個の経理、従業員のもとで営業活動を行い、被告会社はその取引先の一つにすぎない。

三 被告人の個人資産と被告会社への持込みについて

仮りに百歩を譲つて、被告会社に法人としての実体があつたとするならば、その資産状況等については、被告人の個人財産との区別、被告人の昭和二一年度以来の事業が、いつ、どのように、どの程度まで法人化されたか、法人とすれば持込まれた資産は何か、といつた様々な問題が解明されなければならないのに、検察官は本件起訴にあたり、被告人の全資産、全事業活動を証拠により明確にすることを怠つた。被告人は全資産を被告会社に投入したので、被告会社から支払われる月給二万円の給料以外に個人収入がない、という検察官の主張はおよそ客観的な事実に反する。

被告人は、昭和二一年五月から、飴加工業、食堂経営(三一食堂)、養豚業、衣料品販売業(文山商店)、製菓業(丸永製菓)を順次開業し、昭和二五年末より三一食堂を閉鎖しパチンコ遊技場経営やパチンコ器械の販売の事業を併わせて行い、これらの事業に個人資産を投入したもので、その個人資産も検察官の主張額を上廻るものであつた。

銀行預金の増加分の多くは右事業により蓄積した被告人の個人資産であるのに、検察官は、被告人が昭和二五年九月弘前相互銀行盛岡支店に設けた四口の無尽掛金に至るまで、すべての預金を被告会社のものとする等不当な主張をしている。また、昭和二六年八月被告人が小野寺ヨシから盛岡市内の土地、建物を二二〇万円で購入し、その代金を現実に支出しているのに、検察官はこれを八〇万円しか支出していないと主張するのも全く事実に反する。

被告人は、昭和二四年三月末日現在現金八〇〇万円と建物三棟、昭和二六年二月末日現在現金九九〇万円と建物五棟、遊技場設備と遊技器械、昭和二七年二月末日現在現金一、三二〇円、銀行預金一五〇万円二口、九〇万円一口、建物六棟、土地一筆、駅前、本店の各遊技場と器械、銀行借入△一三〇万円、昭和二八年二月末日現在現金九四〇万円、建物六棟、土地一筆、定期預金四五〇万円、その他の預金一二〇万円等の個人資産を有し、運用していたものである。

検察官の主張する被告人の個人資産と被告会社への持込み額(岡村重孝仮受金勘定)は全く合理性を欠く。

四 所得額等について

検察官の主張する所得の立証方法としての財産増減法には多くの不合理がある。

(一) 右のように持込み資産を正しく評価していない。

(二) 銀行預金中架空名義印鑑分の預金の大部分は被告人又は被告会社と全く無関係なもの、その他の預金も被告人個人のものであるのに、これをすべて被告会社のものとして計算している。

(三) 建物勘定の計上時期(年度)に誤まりがある。

(四) 被告会社とは全く別事業体のいわゆる別会社の勘定をも所得に入れている。

(五) 各支店の財産についてごく一部のみを計上するに止まり、支店の損益(欠損)を計上していない。

(六) 検察官主張のその他の勘定科目についても、公表金額(第一年度期首)が根拠のない数額であるのにそのまま採用したり、建物の計上もれ(減価償却額の計上もれ)、未納事業税など損金の計上もれ等がある。

以上により、検察官主張の財産増減計算は不合理で、全体としても到底信用することができないものである。

五 不正行為等について

被告人には、不正行為をした事実も脱税の犯意もない。

そもそも無記名定期預金中架空人名義の印鑑のものについては被告人は全く関知せず、これらは被告会社はもとより被告人個人に帰属するものでもない。その余の預金は被告人個人に帰属すべきもので被告会社の預金ではない。

被告人は、当時、申告、経理一切を中原にまかせ、納税貯蓄組合の指導に従つて手続をしたもので、法人税を脱税しようとする意図も認識もなかつた。

(当裁判所の判断)

第一被告会社と被告人個人の事業主体性等について

まず、当該事業年度の所得(純財産増加分)につき、検察官はこれをすべて被告会社に帰属するものとし、被告人主体性を否定するのに対し、弁護人は、これをすべて被告人個人に帰属すべきものとし、被告会社の法人格ないし実在性を否認し、仮りに被告会社の法人格が認められたとしても、純財産増加分には多額の個人資産が投入されていると主張するので、まず第一に被告会社の法人格ないし実在性について検討し、次に別会社が被告会社に帰属されるか否かについて検討し、第三に被告人個人の事業主体性及び個人資産の被告会社への投入について検討する。

一 被告会社の法人格ないし実在性について

1 被告会社の設立の経緯と初期の法人事業について

(証拠略)によると、次の事実が認められる。

(一) 被告人株式会社三一商事は、本店を盛岡市平戸五八番地に置き、被告人盧が代表取締役となり、昭和二四年三月四日設立登記され、資本金二〇万円で「食堂経営、食料品の加工、瓦斯、薪の製造販売、木工品販売及び右営業に付帯する業務」を目的に掲げていた。昭和二六年九月三〇日、目的の一部を変更し「食料品の加工」に代えて「遊技場の経営」が加えられ、同年一〇月九日に資本金五二万円と変更(同月一〇日登記)し、昭和三〇年一一月一六日解散登記がなされている。

(二) 被告人盧成永は在日韓国人で、大正七年本邦に併合下の旧朝鮮慶尚北道で生まれ、一四歳の頃本州に来て京都の菓子屋に勤め、一八歳の頃郷里に戻つたが、昭和一四年一月再度本州に来て東京の空瓶加工場に勤めた後、昭和一七年頃より独立して空瓶加工業を営んでいた。昭和二〇年の空襲で焼け出され、貯めていた現金約三万円を持ち、青森県下に疎開し、第二次大戦終了後の昭和二〇年九月頃、縁故を頼つて盛岡市に来て、間もなく定住するようになつた。その後盛岡駅前で「三一」食堂を経営したほか、飴加工、養豚、衣料品販売(文山商店)、菓子製造(丸永製菓)等の事業を拡げていた(その詳細は第一の三に説示のとおり)。

(三) 昭和二四年三月四日、前記のとおり被告会社の設立登記を終了したが、「三一」はもともと被告人の屋号でもあり、朝鮮民族の独立運動(一九一九年三月一日のいわゆる三・一運動)にちなむものであつた。その設立は、江頭三郎らと薪炭、材木販売の共同事業等を行う企図のもとになされたものであつた。

(四) 資本金二〇万円は被告人が事実上全額出資しており、ほかに株主となつている盧福永ら九名は、いずれも被告人の親族か従業員、知人で被告人に名義を貸しただけであつた。(成瀬孝助の検面調書では、成瀬が被告会社に二万円出資した、とされているが、その時期も不明で同人の証言と対比して信用できない。川村常次郎の検面調書では、「亡父川村与三郎が私の名義で二、三万円位金を出して株を買つたとのことでした。」とあるが、株主名簿では川村常次郎の株式数が二〇〇株とあり、右出資額と合わないことなどから右供述も信用できない。)

(五) 被告会社においては、株主総会や取締役会が開かれたことはなく、株券の発行や利益配当等がなされたことも一切なく、会社の決算も昭和二六年に中原が経理を担当するようになるまでは全く行われていなかつた。

(六) 被告会社の営業目的のうち、「瓦斯、薪、木工品の製造販売」は、江頭三郎が手を引いたことにより、行われなかつた。

以上の事実が認められる一方、被告会社の営業目的に「食堂経営、食料品の加工」があげられ、設立当時、被告人は、前記のとおり三一食堂を経営しており、また、昭和二四年六月頃から丸永製菓の名称で菓子の製造販売業を始めているが、右各事業が被告会社の営業とどのような関係に立つのか、換言すれば、被告人が三一食堂を経営するうえで有していた個人資産や負債が被告会社に引継がれたのか、引継がれたとすればその時期、内容如何、その上での被告会社の設立当時の資産、負債内容如何、丸永製菓が被告会社の事業であつたか否かなどの事実についての立証は十分であるとは思われず、本件の全証拠によつてもこの点の解明はできない。

そうすると被告会社は、昭和二四年三月四日形式的には成立したが、当初その実体はなく名目上の存在にすぎず、その実質は被告人の個人事業として遂行されたと認めるほかない。

2 昭和二六年以降の法人事業

しかしながら、被告会社は、やがて法人としての事業活動を行うようになつたもので、(証拠略)によると、次の事実が認められる。

(一) 被告人は、昭和二六年三月頃から、駅前三一食堂を改装してパチンコ遊技場を経営していたが、同年八月頃、中原俊一を雇い入れ、その経理を担当させた。同人は、それまで全く整備されていなかつた帳簿類を整備し始め、取引に被告会社名を用いることを被告人と相談した。

(二) 中原の経理により、昭和二六年九月二日、被告会社の昭和二五年九月一日から昭和二六年二月二八日事業年度分の法人税の確定申告書が所轄の税務署長に提出され、更に昭和二六年九月一七日被告会社の定款変更が行われ、決算日を年二回から毎年二月末日の一回とする旨の届も右税務署長に提出され、一方、前示のとおり、営業目的のうち「食料品の加工」が「遊技場」に変更され、同年一〇月九日資本金も二〇万円から五二万円に増資された(同月一〇日登記)。

(三) 昭和二六年一二月二〇日、被告会社は、盛岡市日影門外小路一四七番の岩渕ツネ子所有名義の建物を賃借する旨の契約をなし(証拠略)、ここに本店としてのパチンコ遊技場を開設した。

(四) 遊技場は駅前に次いで右本店に開設されることになつたが、中原は、期限後の昭和二七年六月三〇日、被告会社の昭和二六年三月一日から昭和二七年二月末日の事業年度の法人税額確定申告書を提出した。右申告書には、添付の会社概況書に右二店舗名と期中平均パチンコ器械台数が記載され、損益計算書に売上額と仕入額が、貸借対照表には備品、機械設備、賞品、原材料その他遊技場経営を示す科目と金額が計上されていた。

(五) 遊技場等の経営は伸び、その盛岡市内の営業状況は次の一覧表のとおりである。

遊技場名(通称)

所在地

営業期間

営業名義人

土地所有者

器械

地方税納付者

建物所有者

(1)

三一第一(駅前店)

平戸五八

二六・三~二九・二末以降

岡村重孝

成瀬孝助

九七台~一二四台

右同

岡村重孝

(2)

三一第二(本店)

日影門外小路一四七

二六・一二~二九・二末以降

岡村重孝

岩渕ツネ子

一〇〇台~一七〇台

右同

右同

(3)

三一第三(本町店)

本町三

二八・四~二九

中原俊一

九五台(二九・二末)

右同

(4)

本町新光店

二八・七~二九・一

(株)三一商事成瀬孝助

四四台(二九・二末)

(5)

柳新道店

柳新道

二九・一~

林池沢

八二台(二九・二末)

右同

盧成永

(6)

階上遊技場(撞球)

日影門外小路一四七

二八・一一~二九・五

岩渕ツネ子

玉突台 四台

岡村重孝

右同

右同(射的)

右同

二八・一一~二九・一

右同

右同

右同(スマートボール)

右同

二八・一一~二九・一

右同

右同

(7)

パチンコ器械工場

馬場小路四

二八・一~

右パチンコ器械台数は検察官主張に基づく。(7)のパチンコ器械工場については、検察官は昭和二七年五月以降被告会社の営業として行われたと主張するのに対し、弁護人はこれを被告人の個人事業であると主張する。右製造工場は、関係証拠によれば、被告人が昭和二七年二月頃より、佐藤晏太を招き、本店の二階で段取りを始め、同年五月頃から個人事業として始められたが、遅くとも昭和二八年一月に被告会社に引継がれ(証拠略)、同年六月頃より、馬場小路四番地に工場を移転したと認められる。

(六) 被告人は被告会社の遊技場を盛岡市外に設けたが、その主な店舗は次のとおりであり、その営業状況は、後記第二の七のとおりである。

(1) 三一釜石遊技場(釜石支店)

(2) 三一水沢遊技場(水沢支店)

(3) 三一八戸遊技場(八戸支店)

(4) 三一秋田遊技場(秋田支店)

(5) 三一角館遊技場(角館支店)

(6) 三一青森遊技場(青森支店)

(7) 三一大三沢遊技場(大三沢支店)

(8) その他(松江、函館、釜石中妻の各支店)

(七) 盛岡税務署、盛岡市等官公庁においても、被告会社を法人の納税義務者として把握していたし、被告会社名義で昭和二九年一一月二九日に労災保険の新規加入がなされていた。同年六月一一日には、大原一鳳の立案した職階制が実施され、社長、支配人、部長、課長の各職務と分担が決められ、社長岡村重孝(被告人)を頂点として、支配人兼総務部長に中原俊一、営業部長に金泰寿、庶務課長に大原一鳳が任命された。

3 被告会社の実在性について

以上を綜合すると、被告会社は、昭和二四年三月の設立の初期には法人としての事業活動や経理が明確にされていたとはいえなかつたが、昭和二六年八月に中原が雇用され、経理事務を担当するようになつてから、被告会社名の取引や帳簿の整備も次第に行われ、被告会社の定款、営業目的が変更されて「遊技場経営」が加えられた昭和二六年一〇月頃からは、被告人の個人経営の遊技場が被告会社の事業として行われるようになつたと認め得る。更に、遊技場の営業を内容として法人税の確定申告をし、被告会社名で外部取引を行い、被告会社内部の組織をも次第に整備し、被告会社としての資産を備えるに至つたことにかんがみると、たとえ被告人が全額出資し、その経営も被告人の一存で行われ、株主総会や取締役会等が開かれていなかつたとしても、そのゆえに被告会社の法人格を否認し、一切の所得を被告人個人に帰属すべしとすることは、禁反言の法理にも反する。また、右の実体を備えていれば、被告会社の事実上の所得を被告会社に帰属させることは実質課税の原則からみても相当であると考えられる。

したがつて、被告会社の法人格を否認し、その事業上の所得をすべて被告人に帰属すべしとする弁護人の主張は採用できない。

二 いわゆる別会社について

検察官が被告会社のトンネル会社ないし被告会社の事業の一部であると主張する、A東洋物産有限会社、B岩手県遊技場協同組合、C東洋物産株式会社は、被告会社と別法人ないし別個の事業体と認められ、その取引を被告会社に帰属させることは相当ではないものと判断する。以下にその理由を説明する。

1 東洋物産有限会社について

(証拠略)によれば、次の事実が認められる。

(一) 東洋物産有限会社は、本店を盛岡市日影門外小路一四七番地に置き、食糧品、菓子類の製造及び雑貨類の販売を目的とし、代表取締役石川利一、取締役中原俊一外二名、監査役被告人外一名の役員構成で、資本の総額三〇〇万円をもつて、昭和二八年五月一九日設立の登記がなされた。

(二) その設立の経緯を見るに、まず、昭和二七年頃、化粧品、煙草等販売業を目的とする合資会社トキボウの代表者石川利一が知り合いの立花貞志より、盛岡市内丸五七番地の三一の宅地八五坪五勺を買わないかと持ちかけられたので、右石川が資金力のある被告人に相談したところ、被告人は譲受けを承知した。しかし立花は、右土地は旧南部藩の敷地で三国人には売らない、と言つたため、法人を設立し、その法人に土地を取得させることとし、そのため、右石川を代表者として右有限会社が設立された。

(三) 右会社は、前記土地の共有名義人立花英吉外五名から昭和二八年五月一九日の売買を原因とし、同月二三日付をもつて所有権移転登記を受け、土地の引渡を受けた。右土地の買受け代金は、被告人が二三〇万円、石川利一が二〇〇万円出し合う約束で、被告人はこれを履行したが石川は履行できず、被告人が大山春吉こと孫化翼から二〇〇万円を借りて用立てた。

(四) 石川利一は名目的な代表取締役にすぎなかつたが、被告人は石川に右土地を利用して事業を行う時には、その事業に参加させることを約していたところ、間もなく右土地の利用権をめぐつて紛争が生じ、右有限会社は盛岡市更生市場協同組合を被告とする土地引渡等請求の訴を提起して争い、判決(二審判決原告勝訴、昭和三一年七月一七日)で結着がつくまでの間、土地の使用は不可能で、事業活動も行われなかつた。

(五) 右有限会社は、昭和三三年頃から雑貨、化粧品等の販売事業を開始し、昭和三六年頃までは石川が中心となり、その後商号を有限会社三愛と変更して事業を続けていた。

以上の事実によると、東洋物産有限会社は、当初定款所定の事業を行わず、被告会社の本店営業所と住所を一にしていたとしても、被告会社のトンネル会社ないし防波堤としての意図で設立されたものとはいえない。また、右土地買受代金四三〇万円が被告会社の遊技場収入経理から支出されたとは認め難い。むしろ被告人の個人財産ないし個人的な信用によつて捻出したものと認められる。そうすると、右会社は別個の法人格を有するだけでなく、実質的にも被告会社とは独立した会社と認めるのが相当である。

検察官は、被告人が当時すべての個人資産を被告会社に投入し、月給二万円以外に収入源はないことを前提に、右土地購入資金四三〇万円も被告会社から支出されたと認定すべき旨主張するが、その前提が成り立たないことは第一の三に詳細に説示するとおりであり、右の経緯にかんがみても、右有限会社は被告会社とは別個独立の事業体であつたと認めるべきである。

2 岩手県遊技場協同組合及び東洋物産株式会社について

(証拠略)によれば、次の事実が認められる。

(一) 岩手県遊技場協同組合は、主たる事務所を盛岡市日影門外小路一四七番地に置き、組合員の取扱品につき共同して生産、販売、購買、保管すること、組合員に対する資金貸付等を事業目的とし代表理事被告人、理事藤原章弘外四名、監事中原俊一外一名の役員構成で出資総口数一、〇〇〇口(一口一、〇〇〇円)をもつて、昭和二八年九月八日法人成立の登記がなされた。右協同組合は、盛岡市内のパチンコ業者が集まり、パチンコ遊技の景品を大量に共同購入し、同業者に販売し、もつて共同の利益を確保するとともに、融資を受ける面でも協同組合法による便益を同業者に提供しようとの趣意に出たものであり、昭和二八年八月一五日創立総会が開かれ、定款、組合規定、事業計画や予算案等が可決、役員選出が行われ、同月二八日中小企業等協同組合法による岩手県知事の定款の認証を受けた。

(二) 右協同組合は、法人成立前の昭和二八年七月頃から事実上事業を開始し、事務所及び倉庫は盛岡市馬場小路四番地に置かれ、片岡良太郎が総責任者となり、従業員成瀬孝助は景品の管理や配達をし、外に女性事務員一名、男性セールス担当三名位がいて事業活動を始めていた。右協同組合の出資金については、営業成績をみて良好であれば加入者が出資するとの約束のもとで、一応被告人が個人的に運営資金三〇〇万円を提供したが、他の組合員が出資しなかつたため、同年一一月頃から、右協同組合の形式はそのまま残し、被告人が東洋物産株式会社の名称で事業を継続した。なお同会社は、法人の設立登記もない名目上の株式会社である。

(三) すなわち、被告人は一時的に右事業を継続し、将来協同組合を復活させたいとの意図のもとに右協同組合を形式上残し、銀行預金も右東洋物産口座に引継ぎ、手形、納品書等の取引にはすべて東洋物産株式会社の名称を用いるようにした。

(四) 右協同組合、東洋物産株式会社の取引先は、被告会社の外盛岡市内の数々の遊技場、スポーツセンター、個人宛にわたり、食料品、化粧品、繊維品、菓子類の品目を納入し、販売先に代金を請求し、その経理は被告会社と別個に記帳され、右協同組合又は右東洋物産から被告会社に対する販売も他の得意先の取引と同一手続で取扱われ、価格の点でも格別の便宜がはかられた形跡はない。

(五) 東洋物産株式会社は右事業の外多数の商店の代理店としても営業活動をしており、昭和二九年七月には営業責任者が前記片岡から大原一鳳に替つたが、この間片岡以下従業員数名が事務、営業を担当していた。

以上の事実によると、右協同組合は、結局協同組合本来の事業を行うには至らず、被告人の個人事業と化し、間もなく法人格のない東洋物産株式会社なる事業体に引継がれたもので、被告会社の事業とは認められないし、被告会社の仕入部であつたということもできない。

検察官は、右協同組合と右東洋物産は実質上被告会社の仕入部であることの根拠として、片岡良太郎の検面調書(31・10・19付)の「記帳はルーズで(被告会社との)区分経理は不可能である。」とか被告人の質問てん末書(30・2・11付)の「出資は誰もしていない。事実上三一の仕入部である。」等の証拠をあげているが、前記の数々の物証と関係者の証言を吟味すれば、前記のように認められるのであり、被告人も公判(七九回)で詳わしく供述し、「東洋物産株式会社の経理は三一商事と全く別に行つていたことは間違いない。現金出納帳、損益計算書、貸借対照表も当時全部できていた。検察庁ではこの点について詳わしい取調べを受けなかつた。」とも供述しており、右公判供述の方が関係物証等に符合するものと考えられる。

三 被告人の個人事業ないし個人資産について

1 被告人の昭和二一年から昭和二六年二月末日までの事業活動と個人資産の形成について

まず、被告人は、捜査段階においては、次のとおり検察官の主張にそう供述をしている。

(一) 被告人の質問てん末書(30・1・28付)では、「東京で戦災にあい、盛岡に昭和二〇年か二一年に来て駅前で食堂を経営し、飴玉の製造卸、キヤラメル等の製造、衣料品、養豚も大規模に飴粕を飼料として昭和二三、四年頃まで営んでいた。養豚は元まで損をしないが、あまり儲けなかつた。食堂は昼夜通しで店を開き、飴も相当あり、従業員を五、六〇人使つていた。衣料品は昭和二五年頃全部売り尽した。当時は全く預金をせず、現金で持つていて、三〇〇万円位箱に入れて蝶番をつけていた。飴とか食堂とか綿糸、衣料とかの商売で儲けたのが三〇〇万円位になつた。丸永製菓でキャラメル等を作つていたが、同業者の競争で値下げをしたり、四〇~五〇万円損をして、二四〇~二五〇万円になつた。」と供述し、

(二) 被告人の検面調書(31・4・23付)では、「私が盛岡に来たのは昭和二〇年二月頃で、それから駅前で食堂を経営し、飴玉の製造卸を始め、キヤラメル等の製造もした。衣料品も売つた。養豚も大規模に飴粕を飼料として二三、四年頃まで続け、元まで損をしなかつたがあまり儲けはしなかつた。当時全く預金をせず、現金で持つており、その額は四〇〇万円位で木箱に入れて保管していた。飴とか食堂とか綿糸、衣料とかの商売で右の四〇〇万円を儲けた。馬場小路の菓子工場でキヤラメル等をつくつたが、同業者の競争で値下げもし、結局一五〇~一六〇万円位損をし、現金は二五〇万円位になつた。」と供述している。

右各供述が、被告人の個人事業による資産形成と被告会社への持込み額(岡村重孝仮受金勘定)に関する検察官の主張を支える殆ど唯一の証拠となつているものと考えられる。

これに対し、被告人は、四四回、七六回、七九回、九〇回、九一回各公判において、次のように詳細、具体的に、弁護人の主張にそう供述をしている。

(一) 飴加工業に関し、「昭和二一年五月頃から、その頃残つていた手持金約二万五、〇〇〇円を元手に、市内の杉土手で飴加工業(飴の半製品を加工して販売する)を始め、当時同業者がおらず、また甘い物が非常によく売れた時期だつたので、一日に一五ないし二〇貫目の水飴を加工していたが、作つただけいくらでも売れ、同年一一月までの半年間に二〇〇万円以上の利益をあげた。そのうちに同業者が増えてきたので食堂経営に乗り出すこととしたが、その後も約一年間食堂の地下で事業を続け、その間に約一〇〇万円の利益をあげている。」と述べ、

(二) 食堂(三一食堂)経営に関し、「盛岡駅前で成瀬孝助から土地を借り、建物(一四坪)、設備に約四〇万円かけて、昭和二一年一一月に三一食堂として開店した。この資金は飴加工業で儲けた金から出し、それでもまた二〇〇万円残つていた。三一食堂は、当時鉄道が不便だつたことなどもあつて開店当初から非常に繁昌し、昼夜ぶつ通しの二四時間営業で平均一日延客数一、〇〇〇名位であつた。一日の売上げが三万円から三万五、〇〇〇円で、諸経費を差引いても月に約二〇万円位の利益があり、このような状態が昭和二四年三月頃まで続いた。三一食堂の建物は、昭和二五年に食堂の経営をやめるまでに合計五~六回増改築を加え、建坪が六〇数坪になつた。昭和二三年に食堂の建物の後に従業員宿舎(二階建、建坪一八坪)を約三〇万円で新築し、昭和二四年に増築した。これらの資金はすべて自分の手持金から出した。三一食堂では昭和二四年三月までに約六〇〇万円の利益があつた。これらの手持金は預金せず、渡辺大工に作らせた木製の金庫を食堂の地下に置き、そこに保管していた。同年四月以降も営業を続けたが前ほど利益はあがらず、昭和二五年九月頃廃業したが、それでもこの間に約一〇〇万円の利益をあげている。」と述べ、

(三) 養豚業に関し、「養豚業は昭和二二年盛岡市杉土手に土地を借り、資金四〇万円を投入して始め、餌に食堂の残飯や飴粕を使つたため、費用がかからず、豚の質も良く、年間に五~六〇頭を売却し、昭和二四年に豚コレラに患つたことや従業員の都合がつかなかつたことなどで廃業するまでの間、約一〇〇万円の利益をあげた。この養豚設備全部と残つた豚を昭和二四年永井畜産に四五万円で売却した。」と述べ、

(四) 衣料品(文山商店)に関し、「昭和二二年、三一食堂の近くに約三〇万円で店舗(建坪約一五坪)を購入し、衣料品やゴム靴類の小売店として文山商店を開設し、弟の盧福永と金洛龍らにその仕事をさせた。右店は一度増築したが、昭和二四年に衣料品が統制撤廃となり、在庫を処分して廃業したが、この間約一〇〇万円の利益をあげた。」と述べ、

(五) 製菓業(丸永製菓)に関し、「昭和二四年六月、馬場小路で有坂栄五郎から土地を借り、製菓工場(建坪二六坪)を建築し、丸永製菓の名称でキヤラメル等の製造を始め、文山商店で使つていた駅前の店舗で販売した。右工場は同年一二月は増築して二階建にしたが、それも含めて開業資金に一〇〇万円を要した。丸永製菓の儲けは少なく、昭和二六年に廃業し、結局キヤラメル製造機械を処分した損失を勘定すると、収支トントンであつた。」と述べ、

(六) パチンコ店(駅前三一遊技場)に関し、「昭和二五年一一月から三一食堂の建物に約四〇万円をかけて駅前三一遊技場に改造し、パチンコ店を開業した。パチンコ器械は四〇台であつた。」と述べ(証拠略)によれば、右の開店時期は昭和二六年三月頃と認められる。)、「パチンコ店は、一日一台につき一、〇〇〇円位の売上げがあり、一か月の総売上げが一一〇万~一二〇万円でその約二割が純利益かと思う。」と述べている。

右の営業状況に関する公判供述は、(証拠略)の外、(一)の飴加工業に関しては(証拠略)、(二)の三一食堂に関しては(証拠略)、(三)の養豚に関しては(証拠略)、(四)の文化商店に関しては(証拠略)、(五)の丸永製菓に関しては(証拠略)によつてある程度裏付けられている。なお、被告人は、「銀行預金を本格的に始めたのは昭和二六、二七年頃からであるが、それまで預金をしなかつたのは、いつ韓国に帰されるかわからず、預金を下ろせなくなるかも知れないとの不安があつたからであり、日本に定住できる見とおしがついて預金を始めた。」と供述しているが、右供述は、当時の社会事情に照らし首肯できるところであり、被告人が自宅の金庫に多額の現金を保管していたとしても、あながちこれを不自然なことと言うことはできない。

これに対し、被告人の前記質問てん末書及び検面調書の内容は、公判供述に比し、具体性に乏しく、被告人が三〇〇万円ないし四〇〇万円の現金を持つに至つた経緯についての説明が不足している。これは、捜査段階において前記各証人の取調べがなされていないと推測されることからも、被告人の終戦後の事業活動と資産形成についての捜査が尽されていなかつたためではないかと思料される。

2 昭和二六年二月末日現在の被告人の個人財産の概略

以上により、被告人の終戦後昭和二六年二月末日までの事業活動及び資産形成については、前掲証拠によつて一応認定することができ、昭和二四年三月現在(被告会社の設立登記時)で七~八〇〇万円以下の現金と駅前に三一食堂店舗等三棟の建物を有し、昭和二六年二月末日現在では最大限八~九〇〇万円以下の現金と、駅前に四棟の建物、馬場小路に製菓工場一棟の資産を有したもので、試みにその内容を次表に示す。

現金

現金増加円

現金減少円

1

飴加工利益(三一食堂開設費を除く残)三〇〇万

1

従業員宿舎建築費 二〇万

2

三一食堂の利益 七〇〇万

2

同 増築費 ※

3

養豚の利益 一〇〇万

3

三一食堂増改築費 ※

4

養豚の売却益 四五万

4

養豚開業資金 四〇万

5

文山商店の利益 一〇〇万

5

文山商店開業費 三〇万

6

丸永製菓 〇

6

同 増築費 ※

7

丸永製菓工場新、増築費一〇〇万

8

駅前遊技場開設費 四〇万

9

駅前住居購入費 三〇万

一、二四五万

二七〇万プラスα

差引 九七五万マイナスα

(※は金額が不明なもの αは※三ヶ所の合計額を意味する)

不動産

(1)駅前遊技場一棟、(2)従業員宿舎一棟、(3)駅前住居一棟、(4)駅前売店一棟、(5)馬場小路製菓工場一棟

3 昭和二六年三月以降の被告人の資産形成とその一部の被告会社への持込み等について

まず、遊技場の個人経営として、被告人は、昭和二六年三月に三一食堂を改装し、約一〇〇万円の費用を投じて三一第一遊技場(駅前店)を器械約一〇〇台で開店し、少くとも月平均一〇万円前後の利益をあげていたと推認されるが、右パチンコ営業は、第一の一のとおり、被告会社が遅くとも同年一〇月頃に法人としての実体を備えたのと同時に、被告会社の営業へと法人成りをし、駅前従業員宿舎、パチンコ器械、設備等の資産が被告人から被告会社へと持込まれたと認められる。

次に、(証拠略)によれば、被告人は昭和二五年から同二七年にかけて、業者から寒河江式及びクラハン型パチンコ器械を仕入れて県下の業者に販売し、

(一) 寒河江式パチンコ器械については、昭和二六年一〇月から同二七年三月まで九一三台の供給を受けて販売し、一台当り推定一、五〇〇円の純利益を得たものとみて、合計一三六万九、五〇〇円の純利益をあげ

(二) クラハン型については、昭和二五年から同二六年にかけて約九〇〇台を販売し、一台当り推定五〇〇円の純利益を得たものとみて、合計約四五万円の純利益をあげ

たことが認められ、右認定を左右する証拠はない。そうすると、被告人はパチンコ器械販売の個人事業により、(一)、(二)の合計約一八〇万円の純利益をあげていたものと認められる。

なお、被告人は、昭和二七年五月頃からパチンコの器械製造を営み、昭和二八年一月には被告会社に引継いだ、と認められることは前示のとおりであるが、被告人の公判供述(七六回)によると、「パチンコ器械販売の方は儲かつたが、器械製造は儲からなかつた、赤字と思う。」というのであるから、右製造による純利益はなかつたものと認められる。

4 結び

以上によると、昭和二六年二月当時被告人の所持現金は二五〇万円である、という検察官の主張は到底容認し難く、これをはるかに上回り、九七五万マイナスアルフア円の現金所持分を推認することができ、昭和二六年三月以降についても、パチンコ器械売上益一八〇万円の個人資産増加分が推認される。

四 総括

以上検討したところによると、次のように総括される。

1 被告会社は、遊技場経営を主目的とする法人としての納税義務主体性を認められ、その法人格は否定されない。

2 しかし、東洋物産有限会社、岩手県遊技場協同組合、東洋物産株式会社は、被告会社と別個の事業体で、その所得は被告会社に帰属しない。

3 更に、被告人の全財産が全部被告会社に投入(持込み)され、被告人自身被告会社から受ける月額二万円の収入以外の収入源はない、とする検察官主張は容認できず、被告人個人に事業主体性が認められ、個人所得を有する可能性も認められる。すなわち、対象年度において被告人が個人、法人名義で取得した資産、負債がすべて被告会社に帰属すると推認されるのではなく、その中には被告人個人に帰属すべき所得が混在すると認められる。

第二被告会社の所得の帰属と勘定の処理

一 財産増減法立証について

本件において、検察官は、所得金額の立証方法として財産増減法(以下財産法という。)を採用した。この方法は、損益計算法(以下損益法という。)すなわち損益計算書により、期中の収益、費用の増差によつて所得を計算する方法と異なり、貸借対照表により、期首と期末の財産(資産、負債、資本)の比較によつて所得を計算する方法である。損益法によるか財産法によるかは、訴追者の裁量に委ねられるものと解されるが、いずれの方法によるにせよ、損益法によつて計算された所得は財産法によつて計算された所得と同一同質のものであるという会計理論ないし確立された会計学的経験法則がその根底にあるものと解される。したがつて、所得は、財産法による場合でも、その財産増加の原因となる損益面から裏付けられて正当な額が確実に立証されることになるが、多くの脱税事件に見られるように、継続的な会計記録や帳簿が備わつておらず、個々の財産の増加原因を明らかにすることができないときは、損益面からの個別的な裏付けがなくとも、財産法によつて、当期の純財産の増加高をもつて所得金額を推定することが刑事裁判でも許容されている。しかしこのような所得金額の推定は、他面被告人の反証活動にも制約を与えるものであるから、その防禦権を保護する必要がある。

すなわち、刑事裁判における所得の推定立証は、課税処分におけるいわゆる推計課税とはその理念やあり方を異にし、財産法によつて所得を推定する一方、期首、期末に計上もれとなつた財産がないか、他の事業主体の財産や当期外の損益を原因とするものが混入していないか等を吟味し、その推定を被告人に不利に働かせないように配慮しなければならない。

本件についてこれを見るに、被告会社の会計帳簿類は極めて不完全であり、個々の損益と純財産の増加との関係を十分に把握することができない。また、個人財産と法人財産の混合が至る所に見られ、源泉の不明な科目もある。このような場合でも、被告人の個人としての事業主体性を一切否定し、全個人資産が事業に投入されてしまつたとの検察官主張の前提に立てば、個人、法人名義のいかんを問わず、すべての純財産増加分が被告会社に帰属するとの推定は合理性を持つであろう。しかし、この前提が採り難いことは前項で検討したとおりであり、多額の個人資産が混入している可能性を否定できない本件では、財産法立証のもつ右の意義に則して、所得の帰属を認定しなければならない。

二 持込み資産について

検察官は、被告人個人が被告会社に投下した資産分として、次のように仮受金(岡村重孝)の負債勘定で処理している。

昭和二七年三月一日~同二八年二月末日年度、期首九〇〇、〇〇〇円、当期増減一、二〇〇、〇〇〇円、期末二、一〇〇、〇〇〇円(別表一21、二24)

昭和二八年三月一日~同二九年二月末日年度、期首二、一〇〇、〇〇〇円、当期増減なし、期末二、一〇〇、〇〇〇円(別表三25)

右の内容は、前示双方の主張の要旨中第一の検察官主張三項に要約したとおりである。

しかし、これまでに説示したように、右以外に多額の被告人の個人資産があり、これが被告人又は被告会社名義の純財産増加分に混入したと認められるので、持込み資産としての勘定処理(新たな負債の計上)をせずに、銀行預金増加分等の法人、個人帰属の問題として処理することとする。

三 無記名定期預金について

1 争点

検察官は、被告会社には各期末に興産相互銀行(現北日本相互銀行)本店の次の無記名定期預金(希望定期預金で無記名のもの)が帰属していた旨主張する。

無記名の定期預金一覧表

昭二七・二・二九現在

昭二八・二・二八現在

昭二九・二・二八現在

番号

預入日

金額(万円)

印鑑

番号

預入日

金額(万円)

印鑑

番号

預入日

金額(万円)

印鑑

〈3〉

二七・二・二五

一〇〇

岩淵常子

〈16〉

二八・三・一一

二〇〇

岡村重孝

〈4〉

三・三一

五〇

細川

〈17〉

四・二

五〇

吉田

〈5〉

四・三〇

五〇

細川

〈18〉

五・四

一〇〇

細川

〈6〉

五・三一

五〇

中塚

〈19〉

六・二

一〇〇

中塚

〈7〉

六・二三

五〇

松島

〈20〉

六・二三

五〇

松島

〈8〉

七・二八

一〇〇

佐昭

〈21〉

七・二八

一〇〇

佐昭

〈22〉

九・一八

一五〇

府金

〈9〉

九・二七

五〇

岡村重孝

〈23〉

九・二七

五〇

岡村重孝

〈10〉

一〇・八

四〇

〈24〉

一〇・九

四〇

〈11〉

一〇・三〇

六〇

〈25〉

一〇・三〇

六〇

〈1〉

二六・一一・一〇

五〇

岩淵常子

〈12〉

一一・一七

一〇〇

石川

〈26〉

一一・一七

一〇〇

石川

〈27〉

一二・二三

五〇

及川

〈13〉

一二・三一

五〇

及川

〈28〉

一二・三一

五〇

〈29〉

二九・一・一四

三〇

岡村重孝

〈14〉

二八・一・三一

一〇〇

岡村重孝

〈30〉

二・一

一〇〇

〈15〉

二・七

一〇〇

及川

〈31〉

二・八

二〇〇

及川

〈2〉

二七・二・二五

一〇〇

岩淵常子

総額

一五〇

総額

九〇〇

総額

一、四三〇

これに対し、弁護人は、右各預金のうち、(1)岡村及び岩渕名義以外の架空人名義とされる細川、中塚、松島、佐昭、石川、及川、吉田、府金の印鑑分は被告会社とも被告人とも関係のない他人の預金であり、ただ、その中には、本件査察開始後に銀行側で被告人個人に帰属する預金の印鑑を勝手に変更したもの四口(昭和二八年二月二八日現在一口一〇〇万円、昭和二九年二月二八日現在三口三〇〇万円)が含まれているが、それを特定することはできず、(2)架空人名義印鑑分に混入した右四口の預金と岡村重孝、岩淵常子の印鑑分はすべて被告人個人に帰属するもので、その源泉は、被告人が昭和二一年以来営んできた各種の事業によつて蓄積し、自宅の金庫に保管していた現金等の個人資産であつて、いずれにしても被告会社の預金ではない旨主張する。

そして、右各預金の存在自体は関係各証拠によつて認められ、被告人、弁護人も特に争わないところである。そこで、以下右各預金の帰属について架空人名義の分とそれ以外の分とに分けて検討する。

2 架空人名義の無記名定期預金について

検察官は、架空人名義の無記名定期預金が被告会社に帰属することの証拠として、当時、興産相互銀行本店営業部預金課長で被告人の同店における取引を担当していた斉藤権三郎の検面調書四通、裁判官面前調書、同人作成の定期預金残高調(以下斉藤メモという)、同人作成の「岡村重孝氏関係と推定される定期預金について」と題する書面、印鑑販売業者の佐々木美津枝の検面調書、岩渕ツネ子の検面調書四通及び中原俊一の検面調書三通をあげ、ほかに被告人が一三〇〇万円以上の定期預金を有しているとの記載のある銀行内部書類や銀行関係者の証言をそれぞれあげている。

右各証拠のうち、銀行関係の証拠では、斉藤メモ及び斉藤の各供述調書以外の各証拠は斉藤の報告等により、記載されたものにすぎず、結局は斉藤メモの解釈並びに斉藤の各供述調書の信用性いかんが最も重要な問題に帰するので、この点をまず検討する。

斉藤の検面調書(31・4・2付)によれば、斉藤メモは、同人が取扱つた無記名定期預金についての心覚えのために作成した手控えということであり、二部ある斉藤メモのうち一部は二〇枚綴で昭和二七年二月一二日から昭和二八年八月一二日までの分につき、一部は二枚綴で昭和二八年一〇月八日以降の分につき、口座番号、預入日、氏名、金額、満期日等延約六〇〇口に及ぶ口座がメモ書きされていて、その中には、検察官が被告会社に帰属すると主張する架空人名義の預金に対応すると思料されるものが、岩渕ツネ子(昭和二八年五月三一日付までの分)及び岡村重孝(同年六月二三日付の分)名義として記載されており、斉藤は、被告人との無記名定期預金の取引に関し、検面調書で「誰の預金であるかをはつきりしておくために手控(斉藤メモのこと)を作り、手控中岡村重孝とある分は岡村の自宅で預金して貰つたもの、岡村の従業員の人が銀行の窓口で預金したもの、それらの書替の分である。岡村の話で来たという場合が二、三回あつたが、その場合でも岡村の預金でないと思われるものは手控にも岡村と記載するはずがない。岡村、岩渕以外の印鑑を使用したものも岡村のものに間違いない。」とそれぞれ供述し、裁判官面前調書でも同旨の供述を繰り返し、以上の各証拠からは、前記架空人名義の無記名定期預金が被告人ないし被告会社の帰属であることを肯認できそうである。

しかしながら、右斉藤は公判廷では、「岡村にいろいろ預金の斡旋を頼んでおり、岡村に頼まれて来たという場合もいずれ岡村の関係の預金だと判断した。」(二一回)、「メモ(斉藤メモのこと)は何かの参考にするものであり、岡村から紹介されて預金しに来た分も岡村関係としてメモした。岡村の定期預金なのに印鑑が別名だつたという記憶はない。」(六三回)とそれぞれ供述し、斉藤メモに岡村名義として記載されている預金の中に被告人に帰属しないものがあることを示唆している。そして、右斉藤は検察官の取調状況について、公判廷で、「(検察官に)推定とかいろいろ判断を申し上げたのだが、それが調書では断定的に書かれ、私がそれを指摘しても結果的に同じだと多少押しつけられた気がしている。」(二一回、五八回)、「検察官調書は正確に記載されていない。私が推定で話すことを調書では断定的に書いており、検察官はそれは同じことだと言つて無理々々判を押させられた。今でもそのことをはつきり覚えている。」(六三回)とそれぞれ供述し、各検面調書が必ずしも正確に記載されなかつたことを述べている。

一方、被告人は架空人名義の無記名定期預金につき、捜査、公判を通じ一貫して、自己に帰属することを強く否定しており、また、妻が他の人の金を世話して預けたのもあり、自分自身も多くの人に興産相互銀行に定期預金を勧めた旨供述している。

更に、無記名定期預金は、斉藤の証言(二一回)によれば「自分の預金をよそに知られたくない気がするもので、住所、氏名一切が他にわからない預金である。」とのことであり、預金者の匿名性の要望に沿つたものといえるのに、検察官が被告会社に帰属すると主張する預金のうち架空人名義以外の無記名定期預金に使用された印鑑がいずれも「岡村重孝」ないし「岩淵常子」と明確に刻まれたものであることは、被告人に匿名の預金をする必要もその意志もなく、あえて他人名の印鑑を使用する必要がなかつたのではないかとの疑問を抱かせるものである。

以上の斉藤の証言、被告人の供述、その他無記名定期預金に「岡村重孝」「岩淵常子」名の印鑑が使用されていることの疑問等を綜合して考察すると、斉藤メモで岡村重孝ないし岩淵ツネ子名義として記載された預金の中には被告人や岩淵ツネ子の紹介により、第三者が預金した分が含まれている可能性を否定することができず、斉藤の各検面調書やこれに引き続いて作成された裁判官面前調書の信用性に疑問をはさまざるを得ない。

次に、佐々木美津枝の供述について検討するに、同人は検面調書(31・4・5付)では、検察官から無記名定期に使用された印影を示され、「“岡村重孝”の印は私の店で売つた。“及川”“中塚”の印は昭和二七年か二八年ころ、中原からの注文で既製品を三一に売渡したものである。“佐昭”の印は私の店で作つて三一に渡した。」と供述しているが、公判廷(二二回)では「自分のところで作つた印鑑かどうかについては、一年も前の分はほとんど自信がない。」と供述しており、既製品の印鑑の売買に関して、取引から三年後に作成された検面調書の内容はにわかに措信し難く、また、佐々木印房の職人であつた証人堀内正三も公判廷(二二回)で「“岡村重孝”の印鑑は自分が彫つたものに間違いない。“佐昭”の印鑑は自分が彫つたとは断言できない。」と供述していることからも、佐々木の検面調書の内容の信用性にも疑問をはさまざるを得ない。

次に、岩淵ツネ子の供述について検討を進めるに、同人の各検面調書には、「私は興産相互銀行で定期預金をしており、昭和二七年中は景気が良く毎月のように五〇万、時には一〇〇万円位宛定期預金をした。使用した印鑑は岡村や私以外に石川、及川、吉田、細川、中塚、松島等があつた。佐昭と府金は記憶にない。印鑑はいずれも丸型の三文判で佐々木印房等から買い求めて使用した。預金はすべて遊技場の収入金から出たもので、昭和二七年に六〇〇万位、翌年にも別に八〇〇万位預け入れたと思う。」との供述があり、それは検察官の主張にそうものであるが、右供述は、(一)同人の質問てん末書では「岩淵、岡村以外の印を使つたことはない。石川、細川、中塚等他人名義の印鑑を使用したことはない。」と供述しているのに、検面調書では他人名義の印鑑の大部分について使用を認める供述となつているが、供述がかわつた理由につき何らふれられていないこと、(二)検察官主張の架空人名義の無記名定期預金のうち、前記一覧表番号〈4〉ないし〈8〉は岩淵の検面調書の「昭和二七年中は毎月のように五〇万、一〇〇万宛定期預金した。」との供述と符合しているが、売上簿一冊(証拠略)、統計表一枚(証拠略)、出金伝票綴五冊(証拠略)、当座勘定通帳七冊(証拠略)を綜合して認められる昭和二七年三月から同年八月までの被告会社の遊技場(駅前、大通本店)の収支は次のとおりであり、

売上高(円)    出金高(円)

三月 三、四八〇、四八〇 二、八三六、四八〇

四月 三、三二二、五八〇 三、一二二、七九〇

五月 三、六五一、五四〇 三、七一七、六一八

六月 三、三二二、〇〇九 四、〇七九、二一一

七月 三、八五四、八〇〇 四、一六一、〇二七

八月 三、六三〇、一〇〇 三、八五三、三五四

(注、三月分の出金は景品出庫分のみ、その他の出金は景品代のほか、光熱費、通信費、人件費等一切を含む)

パチンコ売上金のほかにパチンコ器械の販売代金を加えたとしても、この期間に毎月五〇万ないし一〇〇万円も定期預金するだけの余裕があつたとは到底認められないことなどに照らし措信できるものではない。

次に、中原俊一の供述について検討するに、本件公訴事実では、無記名定期預金の秘匿が脱税の不正行為の手段の一つとされ、中原が被告人の共犯者とされているのに、中原の各検面調書には、「昭和二八年九月頃岡村に一、〇〇〇万円位の預金があることはわかつていた。」旨の供述があるにとどまり、無記名定期預金(特に架空人名義)の帰属やこれをなした目的、方法等についての具体的な供述が何らなされておらず、右各供述調書は証拠価値の乏しいものである。

その他、検察官主張の架空人名義の無記名定期預金が被告会社ないし被告人に帰属することを認めるに足る証拠はない。預金の帰属を立証するための証拠としては、その口座に関する通帳、帳簿、印鑑等が重要であり、また、当該預金のてん末についての調査も欠かすことのできないものと思料されるが、本件においては、これらの証拠は提出されず、公判の初期の段階ならばともかく、現段階では各預金のてん末の調査等も不可能である。

以上により架空人名義の無記名定期預金が、被告人ないし被告会社以外の第三者の預金であるとの可能性を否定できないことに帰するから、これらが被告会社に帰属するとの検察官の主張は採用し難い。

3 架空人名義以外の無記名定期預金について

架空人名義の印鑑使用分のうちで、弁護人が被告人の帰属を認めている前記の四口のほか、被告人ないし岩淵ツネ子名義の無記名定期預金は、昭和二六年度二口一五〇万円、昭和二七年度六口四五〇万円、昭和二八年度九口七八〇万円であるところ、これらが被告会社あるいは被告人個人のいずれに帰属すべきかが問題となるので、この点について検討を進める。

前記一覧表番号〈1〉の預金は、(証拠略)により、その源泉が駅前遊技場のパチンコ売上金と認められることから、被告会社に帰属するものと認める。

その余の無記名定期預金については、それらの源泉がパチンコ売上金等被告会社の収入であると認めるに足る証拠がない。

被告人は公判廷(八一回)で、「定期預金は私が二一年からやつたいろいろな事業を整理して得た金を入れた。」と供述しており、前示第一の三のとおり、被告人は昭和二六年二月末当時約九七五万円以下の多額の現金を所持していたことを推認でき、その後もパチンコ器械売上による個人資産増加分が推認できることから、被告人ないし岩渕ツネ子名義の無記名定期預金の中に、その源泉が被告人の個人資産であるものが含まれている可能性を否定することができず、その源泉がパチンコ売上金等被告会社の収入であるものが存在するとしても、被告人個人に帰属する可能性があるものとの区別、特定ができないことに帰する。

4 総括

以上により、検察官主張の無記名定期預金のうち、被告会社に帰属すると断定できるのは、前記一覧表番号〈1〉の一口五〇万円の分のみであつて、その余の無記名定期預金は、被告会社ないし被告人以外の者か、被告人個人に帰属する可能性が認められるので、被告会社に帰属すると断定することはできない。

四 無記名定期預金以外の預金について

1 争点

検察官は、被告会社には無記名定期預金以外の預金として各期末に次の一覧表記載のとおりの各預金が帰属していた旨主張する(右一覧表のうち△印は未達小切手が存するため減額すべき金額)。

これに対し、弁護人は、右各預金はいずれも被告会社に帰属するものでない旨主張している。

そして、右各預金の存在自体は関係各証拠により認められ、被告人、弁護人も特に争わないところである。

そこで、以下各預金の帰属について検討する。

預金一覧表

番号

銀行別

預金種類

番号

名義人

現在高

被告人の供述

27・2・29

28・2・28

29・2・28

〈1〉

興産相銀本店

四五九、二三六

△九〇、七七〇

一、〇六五、四六〇

△一五九、二六五

七七、七四九

入金は、パチンコ・器械・玉・皿・部品等一切の売上げ、払戻しは景品代、他経費

No.10

当座預金

(株)三一商事

〈2〉

――

――

一〇五、〇四八

主に入場税その他税金の支払準備のため、入金はパチンコ売上げ、払戻しは税金

No.80

納税準備預金

〈3〉

――

――

一、〇二四、七三七

△一六六、二二六

営業所それぞれの責任でやつてみようと、本店分に作つた

No.72

当座預金

三一商事本店

〈4〉

弘前相銀盛岡支店

三八、二四〇

六四、三二〇

――

新無3No.35

無尽掛金

盧成永

〈5〉

九六、四八〇

一二八、六四〇

――

〃 No.36.73

〈6〉

弘前相銀盛岡支店

四八、二四〇

六四、三二〇

――

新無4No.33

無尽掛金

盧成永

〈7〉

一一九、〇〇〇

一六一、〇〇〇

――

新栄3No.27.28

〈8〉

七、八七〇

七、一五二

二五、二七二

入金はパチンコ売上げ、二八年八月からの払戻しは無尽掛金である

No.318

普通預金

〈9〉

――

――

一六八、〇〇〇

新栄2No.1~4

無尽掛金

〈10〉

興産相銀本店

一二九、一〇一

――

――

妻が作つたもの、入金は、パチンコ売上金、この預金から定期積金にしたと思う

No.4404

普通預金

岡村重孝

〈11〉

東北銀行本店

――

一七一、八八〇

△四八、八一〇

三四六、四〇三

△一〇一、二一八

入金は、器械、玉売機、景品売上げ、借入金、払戻しは器械材料、部品代

No.376

当座預金

〈12〉

岩手殖銀本店

――

九、五〇〇

七、二七一

器械、玉売機の売上送金を受けるための口座、入金は、すぐ他の預金に入れ、器械代金の送金に回す

No.1004

普通預金

〈13〉

興産相銀本店

――

――

八、五八五

タバコ購入用に作る、一回だけの出入りで有名無実

No.5045

〈14〉

弘前相銀盛岡支店

――

――

二九、〇〇〇

大山春吉の借金一〇〇万の返済準備として柳新道営業所の売上金から掛金

日掛金

〈15〉

――

――

二七、三〇〇

納税準備金で柳新道営業所の分

No.1725

普通預金

〈16〉

興産相銀本店

――

二一〇、〇〇〇

五七〇、〇〇〇

妻が始めたもので、預入れはパチンコの売上金からか妻がやつていたプレイガイドの入金分かはつきりしない

32回3組16~20

無尽掛金

〈17〉

――

――

二四〇、〇〇〇

10組37~41

〈18〉

弘前相銀盛岡支店

――

――

二五、〇〇〇

弘前7No.18

無尽掛金

岡村重孝

〈19〉

興産相銀本店

五五、一四〇

一、五三七

一、五六四

岡村重孝名義の当座預金No.4を解約し、〈1〉のNo.10作つた残りを入金

No.4281

普通預金

岩淵常子

〈20〉

弘前相銀盛岡支店

――

一八八、五五二

五一〇、一〇五

妻張南伊が内緒で、パチンコ売上げから預金したものと思う

No.859

岡村文子

〈21〉

――

――

一〇〇、〇〇〇

定期預金

岡村文子

〈22〉

――

――

一〇〇、〇〇〇

岡村三重子

〈23〉

――

――

一〇〇、〇〇〇

岡村アキ

〈24〉

――

――

一〇〇、〇〇〇

岡村真知子

〈25〉

弘前相銀盛岡支店

――

――

一〇〇、〇〇〇

定期預金

岡村由美

〈26〉

――

――

一〇〇、〇〇〇

岡村文子

〈27〉

――

――

二一、〇〇〇

朝鮮人納税組合のすすめで作る、入金は本町の売上金、払戻しは納税と思う

No.1724

普通預金

中原俊一

〈28〉

興産相銀本店

――

――

五九〇、六四九

△一三八、五七九

営業所それぞれの責任でやつてみようと本町分に作つた

No.71

当座預金

〈29〉

興産相銀大通支店

――

――

七九八、六二五

△二三一、二〇〇

〈28〉同様の理由で作る、入金は三一駅前営業所のパチンコ売上げ、払戻しは景品代が主

No.39

豊川光彦

〈30〉

富士銀行盛岡支店

――

――

六、三四七

当座預金

協同組合

〈31〉

岩手殖銀大通支店

――

――

三七九、二〇二

△三七五、九一三

No.445

東洋物産(株)

〈32〉

興産相銀本店

――

――

五、一七五

No.67

当座預金

東洋物産(株)

〈33〉

五一、八五〇

――

――

掛金はパチンコ、器械、部品、玉、景品の売上げから

No.19/324

定期積金

上山忠一

〈34〉

――

一七、九二八

一八、四二八

(〈10〉に同じ)

入金は、パチンコ売上げの一〇円硬貨など

No.4502

普通預金

〈35〉

――

一七八、五〇〇

――

パチンコ、器械、部品、玉、景品の売上げから

No.21/170

定期積金

〈36〉

――

――

九八、五〇〇

(〈35〉に同じ)

開/764

〈37〉

岩手殖銀大通支店

――

――

六五〇、三四四

△八〇、四八四

柳新道開店時に作る、入金は同店パチンコ売上げ、払戻しは景品代

No.446

当座預金

林賢二郎

2 各預金の源泉と帰属

被告人は、検察官主張の各預金の内容につき、各質問てん末書(30・4・22付、30・4・28付、30・5・2付、30・4・30付)で前記一覧表下段記載のとおり供述している。

被告会社の営業内容は、前記認定のとおり、昭和二六年一〇月頃からのパチンコ遊技場経営と昭和二八年一月頃からのパチンコ器械類の製作、修理、販売であることから、前記各預金のうち、その源泉がパチンコ売上金ないしパチンコ器械類の販売代金等である分は被告会社の帰属と認めるのが相当であり、被告人が源泉につきパチンコ売上金等である旨供述している前記一覧表〈1〉ないし〈3〉、〈8〉、〈10〉ないし〈15〉、〈19〉、〈20〉、〈27〉ないし〈29〉、〈33〉ないし〈37〉の各預金は被告会社に帰属するものと認める。

弘前相互銀行盛岡支店次長作成の上申書によれば、前記一覧表番号〈9〉の預金は同番号〈8〉の預金から、同番号〈18〉の預金は同番号〈14〉から、同番号〈21〉ないし〈26〉の各預金はいずれも同番号〈20〉の預金からそれぞれ振替えられたものであることが認められ、いずれも被告会社に帰属するものと認められる。

同番号〈4〉ないし〈7〉及び〈16〉、〈17〉の各預金については、検察官の主張は、被告人に当時被告会社から受ける月額二万円の収入以外の収入源はないとすることを前提とするもので、それが容認できないことは前示のとおりであり、ほかに右各預金の源泉が被告会社の収入であることを認めるに足る証拠がなく、いずれも被告人個人の帰属するものと推認でき、同番号〈30〉ないし〈32〉の各預金は、前記別会社にそれぞれ帰属するものと認めるほかなく、いずれも被告会社の帰属とは認め難い。

3 総括

以上により、検察官主張の無記名定期預金以外の預金のうち、被告会社の帰属と認められるものは次のとおりである。

昭和二七年二月二九日現在   七〇三、一九七円 (△九〇、七七〇円)

昭和二八年二月二八日現在 一、六四〇、五〇九円(△二〇八、〇七五円)

昭和二九年二月二八日現在 五、一三三、五八〇円(△七一七、七〇七円)

五 建物勘定

1 争点

検察官は、建物勘定につき次のように主張する。

昭和二八年二月二八日現在

(一) 本店事務所建物取得分       四三〇、〇〇〇円

(二) 本店増築分            六六六、四〇〇円

(三) 自宅新築分            六一〇、〇〇〇円

昭和二九年二月二八日現在

(四) 渡辺政治郎からの建物買取     二八〇、〇〇〇円

(五) 馬場小路の工場事務所建物取得   三六五、〇〇〇円

(六) 右建物の改築           一五〇、〇〇〇円

(七) 本店店舗の増改築       二、〇〇〇、〇〇〇円

(八) 自宅の増築            一一六、五〇〇円

(九) 柳新道営業所の改築        四五〇、〇〇〇円

これに対し、弁護人は、右のうち(二)、(三)は翌二八年度分の工事、(七)、(八)、(九)は起訴対象外の翌二九年度分の工事である。と主張する。

2 本店店舗、自宅の増改築等について

まず、(二)、(三)、(七)、(八)の本店店舗、自宅の増改築等について見るに、検察官の主張の根拠となる吉田博幸の仙台国税局収税官吏宛上申書(以下吉田上申書という。)によれば、

(二)の工事は昭和二七年一二月から同二八年一月

(三)の工事は昭和二七年一一月から同二八年二月

(七)の工事は昭和二八年五月から同年一二月

(八)の工事は昭和二八年一一月

に行われた旨記載されている。吉田上申書は、被告会社の営繕係をしていた同人が心覚等に基づき作成したものと認められるところ、被告会社が査察を受けた後、すなわち、昭和三〇年五月一九日と作成日付をすべきところを昭和二九年五月一九日とした誤記が認められる。したがつてその記載の工事の年度にも誤記があるのではないかとの疑いがもたれるところ、

(二)の本店増築、(三)の自宅新築は略併行してなされたこと、当時本店裏手には三福、陳親鏡宅、パン工場があり、少なくとも被告人が三福、陳親鏡宅を買い取つた後にパン工場を買い取り、そこに自宅を新築したことが関係証拠で認められる。更に、(証拠略)によれば、被告人は昭和二七年一〇月一八日陳親鏡から建物を四三万円で買い受け((一)の建物)、昭和二八年四月一七日に明渡しを受けたこと、その明渡しの頃までに三福から建物(五坪)を五万円で買い受け、それを撤去して自宅等の通路としたことが認められる。そうすると、(二)の本店の増築、(三)の自宅新築の時期は、陳親鏡宅の明渡しや三福宅の購入が行われた昭和二八年五月以降となることは明らかであるから、吉田上申書は右の工事年度を一年間、間違えて記載したものと推測せざるを得ない。

したがつて、(二)、(三)の工事は昭和二八年一一月ないし一二月より翌年二月頃にかけてなされたものと認められる。更に(七)の本店の増築、(八)の自宅の増築は、(二)、(三)の工事の後で、前記吉田上申書の時期(年度)ではあり得ないから、これも更に丸一年後の、(七)については昭和二九年五月から、(八)については昭和二九年一一月からの工事と認めるのが相当である。

3 柳新道営業所について

次に(九)柳新道営業所の改築工事は、吉田上申書によると、昭和二九年二月一五日から同月二八日まで(金額は四五五、七〇〇円)になされた、というのである。

しかし、右工事期は第二年度末にかけたとされる上、右上申書により右の期間に被告会社が取引先に支払つたとされる金額(坂東木材一〇三、五〇〇円、三共電業所六八、〇〇〇円、岩手ベニヤ三五、〇〇〇円、丸のタイル二七、〇〇〇円)と、取引先の上申書等(坂東木材につき売掛帳によると29・2・9入金四〇、〇〇〇円、3・5入金三六、二〇五円、三共電業につき松田松雄作成の取引先上申書によると、2・13施行一五、〇〇〇円、岩手ベニヤにつき藤井卓作成の取引先上申書によると2・18入金一〇、四五〇円、丸のタイルにつき佐々川廣作成の上申書によると2月八〇〇円)を対比するとその工事金額がかなり異なつていること、他に吉田上申書の工事金額四五万円余がその期間に支払われたことを認めるに足りる証拠も見当らない。吉田上申書には前記のような年度の誤記が存する等その信用性に若干の疑問が残されている点をも勘案し、右工事も翌年度に行われたものと認定して処理するのが相当である。

六 別会社の勘定

検察官が被告会社に帰属すると主張した東洋物産有限会社、岩手県遊技場協同組合、東洋物産株式会社の資産、負債の額は、すべて被告会社の所得計算から除外するのが相当であり、その勘定科目と金額は以下に説明するとおりである(いずれも昭和二八年度分)。

A 東洋物産有限会社

資産の部 土地          四、一五〇、〇〇〇円

負債の部 銀行借入金       一、八〇〇、〇〇〇円

残高               二、三五〇、〇〇〇円

検察官は、仮りに右有限会社が被告会社と別個の事業体であるとしても、土地の取得資金が被告会社の事業収益から支出され、銀行借入もそのためになされたのであるから、資産の部には土地に代え貸付金又は仮払金四一五万円、負債の部には仮受金一八〇万円を計上すれば足り、勘定科目を異にするのみで、所得計算に差異を生じない、と主張する。

しかし、右土地購入資金が被告会社の経理から支出されたのではなく、被告人の個人的な信用等による借入れによつて捻出したと認められることは第一の二1に説示したとおりであるから、右の予備的主張も採用できない。

B 岩手県遊技場協同組合

資産の部 富士銀行当座預金       (六、三四七円)

C 東洋物産株式会社

資産の部 興産相互当座預金       (五、一七五円)

岩手殖産当座預金     (三七九、二〇二円 △三七五、九一三円)

景品在庫        二、八六〇、三五七円

売掛金           三九八、四四三円

負債の部 買掛金         二、二九三、五五七円

(買掛金検察官主張高)(二、四九〇、九〇七円)

支払手形          八五二、一二七円

残高                 一一三、一一六円

(検察官主張額)     (△七五、七六五円)

右B、Cの当座預金勘定分については、すでに銀行預金勘定(第二の四)で説明済みである。

買掛金中、検察官が右別会社分として計上したサロン北斗、藤仁商店、岩間商店、佐藤商店分の煙草代一七、三五〇円(符二三、三〇、三一号の当座小切手分)は、被告会社のものと認められるので、この額は控除しない。

七 支店の損益について

1 争点

被告会社の各支店(盛岡市以外の遊技場)について、その営業期間や勘定科目についての検察官の主張は、別表七のとおりであり、本件財産増減表に計上したものは、大三沢支店と、青森支店の二店のみであり、その他は計上していない。その理由として検察官は、(1)各支店のうち事業年度の期首、期末に存在した支店は大三沢と角館の二店のみであり、他の支店(期末に負債が把握された青森を除く。)は計上の要がなく、(2)角館支店は負債が資産を上回つたとは認められないからこれを計上しなくとも被告人側に不利にはならないことをあげている。

これに対し、弁護人は、その営業期間を争う(別表七)外各支店には赤字があつたし、これらを一切計上しない検察官立証は財産法立証として不十分なもので、負債の計上もれを修正すべきである、と主張する。

2 各支店の営業期間について

まず、検察官が期首、期末に存在しないと主張する支店の中で、関係証拠によれば、以下のように期首、期末に存在を認められるものとして、釜石、水沢、秋田の各支店があげられる。

釜石支店について、検察官はその存続期間を本件事業年度外の昭和二九年三月以降と主張し、その根拠として店舗に関する賃貸借契約書二通(昭和二九年九月一日契約書)をあげている。しかし(証拠略)によれば、右支店は別表七記載の場所に、昭和二七年一一月ないし一二月頃から営業を開始し、昭和二九年二月以降においても営業がなされたことが認められ、器械台数も昭和二八年二月末現在約七〇台、昭和二九年二月末日現在約一一〇台程度と推認され、営業成績は良好か少くとも赤字経営ではなかつたと認められる。証人及川勝八郎の証言によれば、同人は昭和二七、八年頃その所有する建物を被告人に賃貸したと供述しており、前記賃貸借契約書はその契約を更新した際のものと考えられること、岩手県遊技場協同組合が昭和二八年二月に釜石支店に約二六万円のパチンコ景品類を販売していること等右期間に支店が存続していた事情が十分に認められる。

水沢支店について、検察官はその存続期間を昭和二七年一〇月から昭和二八年一月までと、昭和二九年四月以降である旨主張する。しかしながら、(証拠略)によれば、右支店は別表七掲記の場所に、昭和二七年八月から引続き営業され、昭和二九年二月末日現在とそれ以降にも営業されていたと認めるに十分である。

右各証拠によつて認められる建物の賃貸借の契約の内容、銀行送金状況、昭和二九年一月一日から同年三月一三日までの水沢支店の営業成績が本店に数回にわたつて報告されていること等の事情に徴しても、検察官の右主張は到底認め難く、右のように営業期間を認定するのが相当である。

秋田支店について、検察官はその存続期間を昭和二七年九月から昭和二八年二月までと主張する。しかし(証拠略)によれば、右支店は別表七記載の場所に昭和二七年九月から六ヶ月位開業されたと認められ、昭和二八年二月末日に果して存在しなかつたと言い切れるかどうかは疑わしい。

3 支店の損益の計上もれについて

右のように対象年度の期首、期末に存在した支店は、検察官主張分の外に前記の三店が追加されよう。それら以外の支店も、本店から独立ないし別途会計で営業活動をしていたと推認されるから、本、支店間の勘定報告が行われるとか、貸借の処理を経て支店の損益が本店の決算に反映されたとかの事情のない限り、支店に欠損が生じた場合は、その損失を財産減少要素として、本件財産法計算に加える必要があると考えられる。したがつて当該期首、期末に存在しなかつたとの一事で、それら支店の損益を計上外とすることは妥当でない。そこで各支店について損益ことに損失(ないし負債)計上もれの可能性の有無について考察すると、

(1)の釜石支店においては損失が生じなかつたと認められるから、これを計算外としても不都合はない(逆に利益計上を認める余地があろう。)。

(2)の水沢支店についても同様と認められるが、入場税の未納額の計上もれ分として、昭和二八年一、二月分四一、九一三円、同二九年二月分一四、五一六円が認められる(証拠略)。

(3)の八戸支店については、短期で廃業し、欠損を出した状況が認められ、被告人の質問てん末書(30・4・20付)によると、「店舗の権利金に一二、三万円、その改造費用二五万円、機械五〇万円、玉七万二、〇〇〇円、その他設備一五万円を投入し、営業を三か月続けたが全く駄目で、機械を盛岡に引き揚げ、そのあと店をどうしたか判らない。」旨述べており、欠損が生じた状況が認められる。

(5)の角館支店も、被告人の前記質問てん末書によると、「営業成績が思わしくないので店を居抜きのままで二一万円で三浦に売却したが代金の一〇万円は回収できず、回収の見込はない。損失は二〇万円位になる。」旨供述し、欠損とその金額が一応認められる外、入場税未納額の計上もれ分として、昭和二八年二月分六、四八八円、同二九年二月分三六、七三五円が認められる(証拠略)。

(4)の秋田、(5)の角館、(6)の青森、(7)の大三沢の四支店で昭和二九年二月末日現在、被告人の公判供述(七六回)によると、合計二〇〇万円ないし二五〇万円の損失が生じた、というのであり、証人池元根の証言(四〇回)によると、(四)の秋田支店では精算して第三者に売却し、一二〇万円前後の赤字が出た、というのである。これらの供述内容には具体性がなく、その裏付けも十分になされていないから、その供述額を直ちに措信することはできないとしても、短期間で廃業したことは、投下資本を回収し切れなかつた蓋然性があるものと見て、捜査、又は公判のより早い段階で開、廃業の経緯を明らかにすべきではなかつたかと思料される。

概して、支店に関する検察官の立証は、捜査、公判を通じ、存続期間の点を含めて十分とは言い難く、これは証拠収集が困難であつたことにも一因があるとも推測されるが、本件における財産法立証の信用性を疑わせる一つの情況とせざるを得ない。

八 各年度の所得金額について

検察官が主張する第一年度の法人所得額は七七七万円余、第二年度の法人所得額は一、一四二万円余であるところ、前記の各勘定について修正計算を試みると、次表のとおりとなる(その他の科目は、関係証拠により一応検察官主張額を肯認する。)。

修正試算表

昭和二八年二月二八日現在

勘定科目

検察官主張額(円)

試算額(円)

備考

銀行預金

一一、〇六〇、七一四

一、四三二、四三四

第二の三、四のとおり

建物

二、二五六、一八二

九九三、〇五七

第二の五のとおり

その他の科目

小計

二、五四一、二九六

二、五四一、二九六

合計

一五、八五八、一九二

四、九六六、七八七

未払税金

六八一、八六一

七三〇、二六二

角館支店分及び水沢支店分の計上もれ四八、四〇一円を加算、第二の七のとおり

その他の科目

小計

七、四〇五、六六三

七、四〇五、六六三

当期利益金

七、七七〇、六六八

△三、一六九、一三八

欠損となる。

合計

一五、八五八、一九二

四、九六六、七八七

昭和二九年二月二八日現在

勘定科目

検察官主張額(円)

試算額(円)

備考

銀行預金

一九、五四〇、六八四

四、四一五、八七三

第二の三、四のとおり

売掛金

三九八、四四三

別会社分を控除、第二の六のとおり

たな卸商品

(景品)

三、三八三、二五一

五九五、六八三

別会社分を控除、第二の六のとおり

土地

四、一五〇、〇〇〇

別会社分を控除、第二の六のとおり

建物

五、二八九、〇四九

二、九〇七、一九九

第二の五のとおり

その他の科目

小計

七、三六五、三〇一

七、三六五、三〇一

合計

四〇、一二六、七六四

一五、二八四、〇五六

支払手形

八五二、一二七

別会社分を控除、第二の六のとおり

買掛金

二、五一〇、九〇七

二一七、三五〇

本間たばこ店、サロン北斗、藤仁商店、岩間商店及び佐藤商店分のみ計上、第二の六のとおり

未払税金

一、八二四、〇〇六

一、八七五、二五七

角館支店及び水沢支店分の計上もれ五一、二五一円を加算、第二の七のとおり

借入金

(銀行)

七、四五六、〇〇〇

五、六五六、〇〇〇

東洋物産(有)名義分控除、第二の六のとおり

前期繰越利益金

七、九〇〇、八六三

△三、一六九、一三八

その他の科目

小計

八、一五九、六五四

八、一五九、六五四

当期利益金

一一、四二三、二〇七

二、五四四、九三三

合計

四〇、一二六、七六四

一五、二八四、〇五六

以上のように、第一年度分は純利益(所得)が出ず、第二年度分は概算約二五四万円余の所得額となるものの、検察官主張額の約四分の一弱に大幅に減額される。以上は主要な争点科目について検討したもので、負債の計上もれを疑わせる支店勘定や買掛金の計上もれの可能性も考えられる別会社勘定等は加えられていない。

更に、被告人の事業主体性を全く否定し、かつ個人資産を甚しく過少に評価した点に誤認の疑が持たれる本件においては、検察官が採用した財産法立証による所得の推定の合理性に大きな疑問をさしはさまざるを得ない。

この歪みを是正するために、法人と個人の各事業主体性を認め、財産の増減について法人と個人の各帰属を洗い替え、或は法人と個人間の貸借勘定処理をする等の必要があろう。しかし、それには訴因の変更手続や新たな争点整理を必要とし、更に審理を重ねなければならず、これまでの異例の長期審理の経過にかんがみても、もはやこのような所得計算の再構成を試みることは困難である。

第三不正行為等について

本件は、二事業年度にわたる法人税の不申告脱税事件として訴追された事案であるところ、公訴事実によれば、その不正行為とされるものは、第一年度分については、(一)被告人盧又は架空人上山忠一名義及び佐昭、及川等の印顆を使用した無記名定期預金等をして会社の所得を秘匿した、というのであり、第二年度分については、(一)と同様の手段のほか、(二)その申告期間中被告会社が清算したことがないのに、その事務終了してこの事業は岡村重孝(被告人)外二名の個人経営の如くにして各所得税の確定申告書を提出した、というのである。

そこでまず、無記名定期預金の設定による所得の秘匿工作について検討するに、架空人名義の無記名定期預金関係については、前示のように、第一、第二年度を通じ、その預金の殆どが被告会社はもとより、被告人個人に帰属するとの確証がなく、その設定の動機、原因、処分方法についても被告人が直接関与したことも、中原を介し或は同人と共謀の上これに関与したことを認めるに足りる証拠がない。中原俊一も、捜査、公判を通じ、無記名定期預金のあることは知つていた、と供述しているにすぎず、架空人名義分については関知していたことさえ供述していないのであつて、被告人が支配人の中原を指揮して架空人名義の無記名定期預金をするなどの操作をした、との検察官の主張(論告要旨第一〇項)は認められない。架空人名義以外の無記名定期預金についても、それらが被告会社に帰属するものとは断定し難いことは前示のとおりであり、また、これらの預金がことさら被告会社の所得を秘匿するために設定されたとも認め難い。

次に、個人名義の所得税確定申告書の提出の不正行為性について検討する。(証拠略)によると、被告会社は昭和二八年度分の法人税確定申告をなさず、(1)日影門外小路の事業所、三一本店の岡村重孝名義で所得額一六万円、所得税一、五〇〇円、(2)本町事業所、三一本町店の中原俊一名義で所得額五万円、所得税〇円、(3)駅前の事業所、三一駅前店の豊川光彦名義で所得額五万円、所得税〇円の各確定申告をしたこと、被告人自身も昭和二八年当時被告会社の解散の登記がないことや右各遊技場の経営によって若干の純利益が出ていたことを認識していたことが認められる。更に、中原俊一の検面調書(31・4・13付)によれば、同人は、「三人の個人名義による所得税の確定申告をしたが、これは被告会社名義で申告すべきであつた。確定申告をこのように個人の申告としてごまかすということについては、被告人と十分了解がついていた。」旨供述し、右供述を信用する限り被告人に脱税ないし不正行為についての認識を認める余地なしとしない。

しかしながら、他方、(証拠略)によれば、次の事実が認められる。すなわち、被告人をはじめ、盛岡市在住の在日朝鮮人は、昭和二四、五年当時、一般的にその法的地位が不安定なこともあつて、納税意識は極めて低く、定住の見込みがついた昭和二七年頃から、その人びとによる納税貯蓄組合結成の動きが出て、事実上活動を開始し、昭和二八年一二月に盛岡市朝鮮人商工納税貯蓄組合が設立され、被告人もその理事として名を連ね、在日朝鮮人の納税申告、税務署との交渉、納付税額の相談などの業務をも行うこととしたが、所得税等をきちんと納付するようになつたのは、昭和二九年頃からのことであつた。被告人は、被告会社の納税手続一切を中原に任せていたもので、右個人名義の所得の申告も中原が右納税貯蓄組合と一応相談の上なしたと考えていた。被告会社の申告納付状況は、

年度    所得額(円)     法人税額(円)      備考

昭和二五     五〇、〇〇〇     一七、五〇〇

二六    四九七、六九五    二〇八、九九二

二七 (七、七七〇、六六八)(三、二六三、六五〇) 決定額(訴因と同額)

二八(一一、四二三、二〇七)(四、七九七、七四〇) 右同(右同)

二九    四〇〇、〇〇〇    一六八、〇〇〇

三〇    五〇〇、〇〇〇    二一〇、〇〇〇

であつて、昭和二九、同三〇年度分は、税務署と相談の上その税額を事実上決めていた。

以上の認定事実に被告会社並びに被告人の各事業の経理状況(杜撰ではあるがことさら不正操作は認められない。)を勘案すると、被告会社がなした前記各個人名義の申告もことさら仮装、隠ぺい工作を講ずるためのものというよりは、前記のような納税意識の低さや記帳能力の乏しさ、経理知識の不十分さに由来すると認める方が自然であるとも考えられる。

そうすると、被告人が被告会社の代表者として、法人税を免れる意図のもとに前記のような個人名義の申告をしたと認めるには疑問の余地がある。

第四結論

本件は、被告会社及びその代表者である被告人に対する法人税不申告脱税罪の成否を問う刑事訴訟であり、多くの裁判例も説示するように、単純な不申告は、脱ろうの認識の下になされても、それだけでは脱税罪の処罰の対象となり得ないものと解されるところ、以上説示したところによれば、訴因の中核をなすともいえる秘匿工作としての架空の無記名定期預金の帰属を含む多額の所得の帰属について、証明が不十分であり、なお、第二年度分については若干の純利益(所得額)が認定される余地があるけれども、その推定の合理性に疑いがある上、それが不正行為に基づく脱ろうであることについても疑問の余地が残されているといわなければならない。

以上を要するに、第一、第二年度とも、疑わしきは被告人の利益に従い、不正行為に基づく所得額の証明は不十分であるから、刑事訴訟法三三六条により、被告事件について犯罪の証明がないものとして、被告会社並びに被告人に対し、いずれも無罪の言渡しをする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 小島建彦 森本翅充 松嶋敏明)

別表目録一~七(省略)

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